土岐康行(読み)ときやすゆき

改訂新版 世界大百科事典 「土岐康行」の意味・わかりやすい解説

土岐康行 (ときやすゆき)
生没年:?-1404(応永11)

室町時代の武将。初名義行土岐頼康の兄揖斐(いび)出羽守祐康(ひろやす)(頼雄(よりかつ))の子。1387年(元中4・嘉慶1)頼康のあとを継ぎ美濃尾張,伊勢3ヵ国の守護となった。しかし,翌年将軍足利義満による大守護の勢力削減策の挑発にのり,土岐満貞との間で尾張で黒田合戦おこし,1390年(元中7・明徳1)謀反人として征討された(土岐康行の乱,土岐氏の乱)。その後明徳の乱で戦功をあげ伊勢守護に復帰した。
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朝日日本歴史人物事典 「土岐康行」の解説

土岐康行

没年:応永11.10.6(1404.11.8)
生年:生年不詳
南北朝時代の武将。美濃国(岐阜県)・伊勢国(三重県)守護。左馬助,大膳大夫。初名は義行。土岐揖斐頼雄の子,頼康の養嗣子。嘉慶1/元中4(1387)年の頼康の没後,美濃・尾張・伊勢3カ国守護を継承したが,翌年弟の土岐島田満貞が尾張守護に補任されたことから,室町幕府に対し,いわゆる土岐康行の乱を起こす。明徳1/元中7年閏3月,最後の抵抗拠点,美濃池田郡小島城が陥落して没落するが,翌年の山名氏清が幕府に反した明徳の乱で戦功を挙げ,伊勢守護のみ還補以後,伊勢守護は康行の系統が断続的に継承した。

(谷口研語)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「土岐康行」の解説

土岐康行 とき-やすゆき

?-1404 南北朝-室町時代の武将。
土岐頼雄(よりかつ)の子。土岐満貞(みつさだ)の兄。美濃(みの),尾張(おわり),伊勢(いせ)3国の守護,伯父土岐頼康(よりやす)の養子となり,家督をつぐ。足利義満(よしみつ)が土岐一族の分裂をはかり,満貞を尾張守護に任じたため,明徳元=元中7年挙兵したが敗北。翌年の明徳の乱で幕府側にくわわり伊勢守護に復した。応永11年10月6日死去。初名は義行。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「土岐康行」の解説

土岐康行
ときやすゆき

?~1404.10.6

南北朝期の武将。美濃・尾張・伊勢各国守護。1387年(嘉慶元・元中4)叔父頼康から美濃国ほかの守護職を継承。尾張についてはまもなく弟満貞にかえられたことから,88年尾張国守護代土岐詮直(あきなお)と満貞が交戦,康行も詮直を援助した。これが幕府への反抗とみなされて追討をうけ,90年(明徳元・元中7)没落(土岐氏の乱)。翌年明徳の乱で戦功をあげ,伊勢国守護職を回復。

出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「土岐康行」の意味・わかりやすい解説

土岐康行
ときやすゆき

[生]?
[没]元中7=明徳1(1390).閏3.25.
南北朝時代末期の武将。美濃,伊勢の守護。頼雄の子。伯父頼康の養子となり,元中4=嘉慶1 (1387) 年頼康の死により,土岐惣領を継ぐ。守護職継承のことなどで弟満貞と対立し,美濃,尾張に内乱が起り,元中6=康応1 (89) 年室町幕府の討伐を受け,1年後に滅ぼされた (→土岐氏の乱 ) 。

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