国立劇場(読み)こくりつげきじょう

精選版 日本国語大辞典 「国立劇場」の意味・読み・例文・類語

こくりつ‐げきじょう ‥ゲキヂャウ【国立劇場】

〘名〙 国が財政的援助を与えて設立し管理する劇場。その国の演劇文化の保存、継承、振興のため設けられる。日本では、昭和四一年(一九六六)東京都千代田区隼町に歌舞伎を中心とする古典芸能の上演の場として建設された国立劇場をはじめ、同敷地内の国立演芸場国立能楽堂(東京都渋谷区千駄ケ谷)、国立文楽劇場(大阪市中央区)、新国立劇場(渋谷区初台)がある。

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デジタル大辞泉 「国立劇場」の意味・読み・例文・類語

こくりつ‐げきじょう〔‐ゲキヂヤウ〕【国立劇場】

国が財政的な援助を与えて設立し、その国の演劇文化の保存・継承・振興のために運営する劇場。コメディー‐フランセーズスカラ座など。
東京都千代田区にある劇場。日本の伝統芸能の公開のほか、調査研究・資料収集・後継者養成などを目的に、国立劇場法によって昭和41年(1966)設立。

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改訂新版 世界大百科事典 「国立劇場」の意味・わかりやすい解説

国立劇場 (こくりつげきじょう)

国家の文化政策,そしてそれに基づいての国家財政あるいは財政的援助によって,創設・管理・運営される劇場を中心にした演劇組織。多くの場合に,上演場所としての劇場と上演集団たる劇団そのほかが,一体のものとしてともに組織され,運営される。したがって,その劇団と劇場の両方が,総称としての同じ一つの名前(西欧のものが日本語に訳された場合には〈○○劇場〉などの名称)で呼ばれることが多い。

西欧における国立劇場の歴史は古く,その多くはいわゆる〈宮廷劇場〉の系譜に連なり,また重なるものとしてあるが,国家が経済・芸術上の管理・運営の責任者=パトロンとなった屋内ホールの国立劇場の嚆矢(こうし)は,1680年パリに誕生した〈コメディ・フランセーズ〉である。これはフランスにいち早く集権的な統一国家ができたことや,ルイ14世の人柄や,モリエール,ラシーヌら強力な劇作家が輩出したせいでもあろう。座頭・作家・俳優だったモリエールの死後,不調の一座が拠っていたゲネゴー劇場と,ラシーヌ劇の上演,イタリア人劇団の活躍などで隆盛だったブルゴーニュ館(ブルゴーニュ座)が,ルイ14世の勅命によって(前者の劇場に)合併,国王の認可を得てパリにおける唯一のフランス劇団(と劇場)となり,〈コメディ・フランセーズ〉は発足したわけだが,発足当時,座長はラ・グランジュLa Grange(1639-92),座員は男15名,女11名,計27名だった。〈コメディ・フランセーズ〉は,よかれあしかれ,フランスの古典を中心に,演劇芸術の伝統の擁護と顕揚を何よりのモットーに掲げ,時代とともに色合いを変えながらも,今日まで続いて健在である。もう一つ,古い国立劇場例には,ウィーンの〈ブルク劇場〉があげられる。かつてヨーロッパに多かった演劇愛好封建諸侯の〈王室あるいは宮廷劇場〉の一つを,1776年,ヨーゼフ2世が〈(国民)宮廷劇場〉として,国立劇場(と劇団)化したのがこの起りである。この劇場も現代まで存続しているが,とりわけここは19世紀中葉,H.ラウベの総監督(インテンダント)時代,母国の劇作家,J.ネストロイ作品の上演で名高い。こうして,時代が進むとともに各国,各都市に国立劇場ないしそれに準じた劇場が出現したが,そのほとんどが専属劇団を擁し,付属の俳優養成機関や資料室を持つものも多い。また,大部分が長年月のうちには火災などで移転や改築を余儀なくされている。なお,それら比較的古い時代に創建された国立劇場は,創設当初はともかく,時が経つと,博物館化しがちで,現にそうしたケースも少なくなかった。だから,それに対する革新の動きがみられて,それが注目されもしている。

 ところが,近・現代に登場した比較的新しい国立劇場になると,今ふれた革新の具現化のような場合もあって,概して開場の動機や成り立ちや仕事ぶりなど全体のトーンが,旧来の国立劇場とは異なる。ロシアの〈モスクワ芸術座〉や,旧東ドイツの〈ベルリーナー・アンサンブル〉や,フランスの〈国立民衆劇場〉(略称TNP)や,イギリスの〈ナショナル・シアター〉(略称NT)などがその好例である。

 まず〈モスクワ芸術座〉は,19世紀末,マンネリ,商業主義,大芝居化していた当時の演劇界の大勢に抗して,リアルで純正な,演劇ならではの手ごたえをという革新の願いから革命翌年の1918年に生まれたもので,この事情は同時代のドイツの〈マイニンゲン一座〉や,フランスその他での〈自由劇場〉運動と軌を一にしている。

 次にここで,先に指摘した革新の動きにふれると,たとえば〈コメディ・フランセーズ〉の第二劇場となった旧〈オデオン座〉(リュクサンブール劇場)が,のちに〈テアトル・ド・フランスThéâtre de France〉と呼ばれて,文化相A.マルローの肝煎(きもいり)で一時期,J.L.バロー,M.ルノーの〈ルノー・バロー劇団〉に委ねられ(1958-68),その間古典の新演出や,P.クローデル,J.ジュネ,S.ベケット,E.イヨネスコらの作品上演で気を吐いたことが見落とせないが,いまひとつ非常に斬新でユニークな例は,上記のパリの〈TNP〉の活躍であろう。創設は1920年で,初代の責任者は俳優・演出家のF.ジェミエ。ところが,ここがほんとうにその名にふさわしい劇場になったのは1951年,演出家J.ビラールが統率者になって以来のことで,辞任(1963)までの12年間,G.フィリップやM.カザレスなどの名優を擁して彼はこの大ホール(座席数約2700)を,〈民衆劇場〉の名にふさわしくアクチュアルで上質な芸術の醍醐味を,たくさんの観客に安価に提供する場所にすることに成功した。しかし,その後,激動する社会・政治的現実の前で,民衆演劇の理念が不透明化するにともない,活動は低迷,72年にはパリのシャイヨ宮から,演出家・俳優R.プランションのもともとの本拠地,リヨンに隣接したビルルバンヌに移転,そこへ演出家P.シェローらを加えて新〈TNP〉は集団指導の体制で,ビラールの遺志を継ぎながら,新時代に応じた新しい民衆演劇の開拓に意欲を燃やして今日に至っている。〈TNP〉のおもなレパートリーには内外の読み直された古典と並んで,ブレヒトら,概して社会派の異色な現代作家たちの作品があげられる。なお,50年代からフランスでは一般に演劇の地方分散化の動きが活発で,パリの東のはずれで文化的には“砂漠”といわれたメニルモンタン界隈に新設された国立劇場,〈パリ東部劇場Théâtre de L'Est Parisien〉(略称TEP)をはじめ,パリ近郊や地方主要都市に国と地方自治体が共同出資する国・公立劇場(と劇団),多くの場合は,もともとA.マルローの提唱したいわゆる〈文化の家Maison de la culture〉付属演劇センターが開設され,それらの活動が総じてレベルが高く,前衛的なのは興味深い。プランションのグループももとはそうした代表的なセンターの一つだった。さて,次に〈ベルリーナー・アンサンブル〉はB.ブレヒトと妻の女優,H.ワイゲルを中心に東ベルリンで編成され,1949年に正式に旗揚げした国立劇団(と劇場)で,創設者たち亡き後も,ブレヒト作品を軸に,彼のメソードで公演活動を続けているが,往年のような精彩を欠くことは否めない。次に〈ナショナル・シアター〉だが,イギリスは,エリザベス朝以来,ことに演劇が盛んで劇場も多く,長い間ロンドンの〈コベント・ガーデンCovent Garden劇場〉や〈ドルーリー・レーンDrury Lane劇場〉は国王勅許の特権的劇場だったが,今日的な国立劇場(と劇団)の出現は遅れて,その創設が俎上(そじよう)にのぼったのは第1次大戦前後のことであった。そして,第2次大戦後,49年に設置法案が議会を通過,まず由緒あるシェークスピア劇場(と劇団)である〈オールド・ビック〉がL.K.オリビエをディレクターに〈ナショナル・シアター〉となり,64年に新劇場の建設を開始,76年に中,次いで大,最後に小劇場が完成(1977),新ディレクターは演出家P.ホール,そしてJ.ギルグッド,P.スコフィールドらの俳優,演出家のJ.デクスター,劇作家のH.ピンターらの協力を得て,ここは,準国立劇場(と劇団)の〈ローヤル・シェークスピア劇団Royal Shakespeare Company〉(略称RSC)とともに,なかなかフレッシュでめざましい仕事ぶりを見せている。

 なお,アメリカにも,西欧諸国と比較して少ないにせよ,公共の財政援助はあるが,国立劇場(と劇団)はなく,演劇制作が徹底してプライベートなのはいかにも御国柄を反映していて面白い。
執筆者:

日本に国立劇場を設置しようとする運動は,1873,74年(明治6,7)ごろ,外遊から帰った大久保利通末松謙澄らから12世守田勘弥がヨーロッパの宮廷劇場の実情を聞いて,計画を立てたときに始まる。欧化政策のもとで,86年,演劇改良会が伊藤博文の支持を得て建築計画に着手したり,1906年に再び伊藤博文を中心に政財界人をひろく集め,国立劇場設立発起人会が開かれたりしたが,いずれも中絶した。21年に新劇俳優の笹本甲午が〈営利を目的としない国立劇場の建設〉を提唱し,鳩山一郎などが呼応したが,これも挫折。36年4月には国立劇場設置案委員会(会長中村吉蔵)が設けられ,5世中村歌右衛門・岡本綺堂・河竹繁俊らが中心となって,〈国立劇場設置に関する建議案〉を国会に提出したが,翌年の日中戦争勃発により再び暗礁に乗り上げた。戦後も片山内閣の委嘱により,河竹繁俊・森岩雄・藤原義江など演劇文化人によって国立劇場設立の気運は高まったが,実らなかった。その後,55年になって,文化財保護委員会(現,文化庁)が国立劇場の設立計画を諮問し,56年には,具体的設立計画を推進するための国立劇場設立準備協議会が設立された。

 特殊法人国立劇場が国の補助金を受け管理運営する形態を採り,当初の計画はオペラ劇場や能楽堂をも含む構想であったが,敷地の関係から,まず日本の伝統芸能の保存振興をはかることを目的とする施設を設けることとし,66年11月に,伝統芸能のための国立劇場(東京都千代田区隼町)が開場した。日本の伝統芸能は,古代,中世,近世,また現代の代表的な芸能が,それぞれ固有の分野を守りながら重層的に,しかも並存して継承されてきた。この形態は,世界にも例をみない特質である。国立劇場は,こうした伝統芸能の根を絶やすことなく,衰微しかかっているものを蘇生させ,また活力を与えて次代に引き継いでいくために,伝統芸能の保存と普及,その醇化と育成に資するよう各種の事業を行うことを使命としている。伝統芸能の公開・調査・養成を3本柱とし,施設としては,公開のための大劇場(1616席),小劇場(594席),調査のための図書室,資料室など,養成のための教室を備えている。公開事業では自主公演として歌舞伎・文楽・雅楽・邦楽・邦舞・民俗芸能などを上演し,貸劇場によって民間の利用にも活用している。調査事業では,上演資料集や歌舞伎年表の作成を行うほか,芸能資料の収集・展示を行い,養成事業では,歌舞伎・文楽の技芸者の養成から,竹本・歌舞伎囃子・寄席囃子などの研修を実施してきている。また,79年11月には同敷地内に国立演芸資料館が設立され,その中に設けられた国立演芸場(300席)では落語・講談などの大衆演芸が定期的に演じられ,大衆演芸の振興も図られている。なお,当初は国立劇場法による特殊法人として発足したが,90年の法改正で特殊法人日本芸術文化振興会となった(2003年10月独立行政法人となる)。

 一方,独自の舞台を必要とする能楽の保存振興のためにも施設の必要性が唱えられ,1974年から検討を進め,国立劇場と同じく公開・調査・養成の機能を全うする施設の設立を決定,83年9月に国立能楽堂(東京都渋谷区千駄ヶ谷,591席)が開場。また,文楽の保存振興のためには,文楽発祥の地である大阪に劇場を設けることが必要であるという観点から,1975年に建設を決定し,84年3月に国立文楽劇場(大阪市南区日本橋,753席。現在は同市中央区日本橋)が開場した。

 国立劇場の当初の計画に入っていながら,敷地の関係でなかなか実現を見なかった現代舞台芸術のための新国立劇場(第二国立劇場)は,東京都渋谷区本町に1997年10月に開場した。オペラ・バレエ専用のオペラ劇場(1800席),演劇・現代舞踊のための中劇場(1000席),および小劇場(300~400席)から成り,特殊法人日本芸術文化振興会から委託を受けて,新国立劇場運営財団が運営する。2004年1月には沖縄伝統芸能の保存・振興等を図ることを目的とした国立劇場おきなわが沖縄県浦添市に開場した。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「国立劇場」の意味・わかりやすい解説

国立劇場
こくりつげきじょう

国家が財政的な援助を与えて設立し、その国の舞台芸術の保存・継承・振興のために運営する劇場。日本では1966年(昭和41)設立開場されたのに始まり、日本の伝統的な古典芸能の公開の場として、後述の各種の施設が整えられている。これの管理運営は、国立劇場法による特殊法人国立劇場が行ってきたが、1990年(平成2)の法改正により、名称が特殊法人日本芸術文化振興会に変更された(2003年特殊法人から独立行政法人となる)。

[田中英機]

日本の国立劇場

その設立運動は1873、1874年(明治6、7)ごろに始まる。当時の欧化主義のもと、守田座の座元12世守田勘弥(かんや)が、海外視察から帰朝した大久保利通(としみち)、末松謙澄(けんちょう)らにヨーロッパ諸国の宮廷劇場の実情を聞き、大いに刺激されてその計画をたてたのに始まる。1886年、末松らの結成した演劇改良会は、時の宰相伊藤博文(ひろぶみ)の支持を得てその建築計画に着手、また1906年(明治39)ふたたび伊藤博文を中心に政財界人を集めて国立劇場設立発起人会が開かれるなどしたが、いずれも中絶した。大正期には1921年(大正10)新劇俳優笹本甲午(ささもとこうご)によって「営利を目的としない国立劇場の建設」が提唱され、鳩山(はとやま)一郎らが支援したが、これも立ち消えとなった。1936年(昭和11)中村吉蔵(きちぞう)を会長とする国立劇場設置案委員会が、5世中村歌右衛門(うたえもん)、池田大伍(だいご)、岡本綺堂(きどう)、河竹繁俊(しげとし)らを中心に建議案をまとめ、国会にまで提出されたが、翌年、日中戦争の勃発(ぼっぱつ)により中絶した。第二次世界大戦後の1947年(昭和22)、総理大臣片山哲は官邸で国立劇場設置の懇談会を開き、片山内閣の委嘱によって、河竹繁俊、土方与志(ひじかたよし)、藤原義江(よしえ)らによる演劇文化委員会が設けられたが、これも実らなかった。しかし1955年、文化財保護委員会(現文化庁)は、無形文化財としての古典芸能の保存振興施策の課題として国立劇場設立を企図し、翌年国立劇場設立準備協議会(会長・小宮豊隆(とよたか))が発足し、ようやくその端緒が開かれた。当初計画ではオペラ劇場や能楽堂をも含む構想であったが、三宅坂(みやけざか)パレスハイツ跡の敷地の関係から、「主としてわが国古来の伝統的な芸能の公開、伝承者の養成、調査研究等を行い、その保存及び振興を図り、もって文化の向上に寄与する」(国立劇場法第1条)ことを目的とし、1966年秋、つまり国立劇場設立運動がおこってからほぼ1世紀後、その実現をみたのである。

[田中英機]

国立劇場

東京都千代田区隼(はやぶさ)町。建築設計・岩本博行ら13名(竹中工務店)。1966年(昭和41)11月開場。わが国伝統芸能の公開、伝承者養成、調査研究を三本柱に各種の事業を行う。その施設として、大劇場(1746席)、小劇場(630席)、および調査研究のための図書室・資料室など、さらに養成事業のための研修室などがある。公開事業では、自主公演として歌舞伎(かぶき)・文楽(ぶんらく)・雅楽・邦楽・邦舞・民俗芸能などを定期的に上演。また貸劇場によって民間の利用・活用に供している。調査事業では上演芸能資料集や歌舞伎年表の作成、芸能資料の収集・展示を行い、養成事業では歌舞伎・文楽・能楽の技芸者の養成から、竹本(たけもと)・歌舞伎囃子(ばやし)・寄席(よせ)囃子などの研修を実施。

[田中英機]

国立演芸資料館

国立劇場敷地内に併設。1979年11月開館。国立演芸場(300席)を中心に、落語・講談など大衆演芸の公開、調査研究、資料展示などを行う。

[田中英機]

国立能楽堂

東京都渋谷区千駄ヶ谷(せんだがや)。建築設計・大江宏。1983年9月開場。能舞台(591席)と、研修室、資料室を整備し、能・狂言の定期的な自主公演とともに、能楽三役(ワキ、囃子、狂言)の伝承者養成事業を行う。

[田中英機]

国立文楽劇場

大阪市中央区高津(こうづ)町。建築設計・黒川紀章。1984年3月開場。753席。文楽専用を旨としながら、仮設花道なども用意し、歌舞伎や邦舞・邦楽など広く伝統芸能一般の上演にもふさわしい劇場となっており、上方(かみがた)の芸能振興の一拠点として機能させようとしている。

 また一方、オペラ、バレエ、演劇など現代舞台芸術のための国立劇場設立も長年の懸案であったが、1972年12月に発足した第二国立劇場設立準備協議会によって基本的な構想が策定されるとともに、敷地も東京都渋谷区本町に決まり、1985年度文化庁予算には設計競技が実施されるなど、早期開場を目ざして準備が進められ、1997年10月「新国立劇場」として開場した。同年、千葉県銚子(ちょうし)市に舞台美術センター資料館が、2003年には国立劇場本館敷地内に伝統芸術情報館が開館した。2004年1月、沖縄県浦添(うらそえ)市に国立劇場おきなわ(大ホール、小ホール)が開場した。

[田中英機]

海外の国立劇場

ヨーロッパでは古くから各国王家の庇護(ひご)の下に発展した宮廷劇場があり、それが国立劇場に移行した形が多い。今日では、上演に多大の費用を要するオペラ、バレエのために国立(州立・市立なども多い)劇場が設けられる例が多く、ミラノ・スカラ座(イタリア)、ロンドンのロイヤル・オペラハウス(イギリス)、パリ・オペラ座(フランス)、ベルリン国立歌劇場(ドイツ)、ウィーン国立歌劇場、同フォルクスオーパー(オーストリア)、ワシントンのケネディ・センター・オペラ劇場、サンフランシスコ市立歌劇場(アメリカ)、カナダ国立芸術センター・オペラ劇場、そしてモスクワのボリショイ(国立)劇場をはじめとするロシアのオペラ・バレエ劇場などがあげられる。また演劇上演の国立劇場としては、モリエール以来の伝統を誇るパリのコメディ・フランセーズ、ウィーンのブルク劇場、ベルリンのベルリーナ・アンサンブル、ロシアではモスクワ芸術座、同マールイ劇場などが世界的に知られており、これらはいずれも本拠地としての自らの劇場をもつ劇団である点が特色である。

[田中英機]


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百科事典マイペディア 「国立劇場」の意味・わかりやすい解説

国立劇場【こくりつげきじょう】

演劇芸能文化の振興を図るために,国家の経営の下に設立された劇場,またはそのための演劇組織。フランスのコメディ・フランセーズなど欧州各国の著名大劇場の多くは国立劇場である。日本でも明治初期以来数回にわたって設立運動が起こったが,1966年11月,大劇場と小劇場をもつ国立劇場が東京都千代田区隼町に開場し,おもに古典芸能,民俗芸能の公演を行っているほか,これに隣接して大衆芸能のための国立演芸場(国立演芸資料館,1979年開場),渋谷区千駄ヶ谷に国立能楽堂(1983年開場),大阪市中央区日本橋に国立文楽劇場(1984年開場)がある。1997年10月にはオペラや現代芸能の公演を行う新国立劇場が渋谷区本町に開場。2004年1月,組踊などの沖縄伝統芸能の保存・振興を図るために〈国立劇場おきなわ〉が沖縄の浦添に開場。なお,上記の日本の国立劇場を管理・運営する組織として独立行政法人日本芸術文化振興会(2003年発足)があるが,その前身は1990年国立劇場法改正により設けられた芸術文化振興基金(のち日本芸術文化振興会と改称)である。
→関連項目五十嵐喜芳

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「国立劇場」の意味・わかりやすい解説

国立劇場
こくりつげきじょう
national theatre

演劇の育成や興隆のため,国の経済援助によって設立され,経費の一部または全部が国家の予算的措置によって運営される劇場。ヨーロッパ諸国の多くは,ロンドンのナショナル・シアター,パリのコメディー・フランセーズ,ウィーンのブルク劇場のように,専属の劇団をもっている。かつてのソ連,および東ヨーロッパ諸国では,機構としてはすべての劇場が国立劇場であり,それぞれの国における演劇活動の中心となっていた。日本では 1966年,東京都千代田区三宅坂に開場。約 1700人の収容能力をもつ大劇場と,600人余の小劇場のほかに国立演芸場 (1979) ,渋谷区千駄ケ谷に国立能楽堂 (83) ,大阪日本橋に国立文楽劇場 (84) なども開設。後継者養成のための施設なども備え,古典芸能の保護育成に努めている。さらに現代の演劇や舞踊,オペラのための新国立劇場が 97年渋谷区本町に完成。約 1800席の大劇場と 1000席程度の中劇場,約 400席の小劇場から成る。

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デジタル大辞泉プラス 「国立劇場」の解説

国立劇場

東京都千代田区にある劇場。1966年開館。おもに歌舞伎の公演が行われる大劇場、文楽・邦楽・邦舞・雅楽などの公演が行われる小劇場、落語・講談などが行われる演芸場(1979年開館)がある。

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事典・日本の観光資源 「国立劇場」の解説

国立劇場

(東京都千代田区)
公共建築百選」指定の観光名所。

出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報

世界大百科事典(旧版)内の国立劇場の言及

【歌舞伎】より

…しかし,これ以後も関東大震災,第2次世界大戦などに際して,しばしば危機が叫ばれながら,そのつど不死身のようによみがえって,こんにちまで商業演劇としての中心的地位を譲ってはいない。 66年に国立劇場が設立され,国家の重要文化財としての見地から,歌舞伎を保護育成し,その調査研究を促進し,同時に次代の歌舞伎を担う俳優を養成する体制がととのいつつある。また,松竹株式会社の尽力により,国際文化交流の一環として,歌舞伎はしばしば海外公演の機会を持っている。…

※「国立劇場」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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