19世紀末~20世紀初めにポーランドのナショナリズムを指導した政党。ふつうエンデツィアEndecjaと呼ばれる。一月蜂起(1863)の敗北とその後の厳しい弾圧に対する反省から,1870年代を風びしたポジティビズムも,80年代に入って蜂起後の世代が育ってくるとともに,その非政治的な姿勢が批判されるようになった。そのような風潮のなかで87年,Z.ミウコフスキら一月蜂起の生残りたちがスイスでポーランド連盟Liga Polskaを結成し,再び独立運動を再開するよう呼びかけた。ドモフスキら若い世代はこの呼びかけに対して,同年ポーランド国内で活動するための下部組織ポーランド青年同盟Związek Młodzieży Polskiejを結成した。しかし遠くスイスにあってポーランド連盟が的確な指令を出すことは不可能であり,93年ドモフスキの主張で本拠地はポーランド国内に移され,名前も民族連盟Liga Narodowaと改められた。あくまでも民族連盟は秘密組織とされ,公然と政治活動を行う政党として97年に国民民主党が結成された。その綱領によれば,ポーランド分割の事実にもかかわらず,ポーランドは一つの国と考えられるべきであり,独立が最終的な活動目標とされた。また独立運動は農民が担うべきであるとし,従来のようにシュラフタ(貴族)だけにその役割を期待することに反対した。主たる活動の舞台としてロシア領ポーランドが選ばれ,そこに住む農民のあいだで民族意識を啓蒙する運動が展開された。運動の成果は1905-07年のロシア革命の時期に皮肉な形をとって現れてくる。つまり革命の過程でロシアのツァーリ体制に変革の可能性が現れてくると,ドイツの急激な勢力伸張に脅威を感じたドモフスキはロシアとの妥協を考え,実現不可能な独立よりも自治を要求すべきであると主張するようになった。農民たちはこれを民族連盟の裏切りと考え,1907-08年につぎつぎと民族連盟から離れていった。かわって彼らが支持したのは,古い伝統に忠実に武装蜂起を準備していたJ.ピウスーツキである。18年にポーランドが独立したとき,ポーランドの政治勢力はドモフスキの支持勢力とピウスーツキの支持勢力に二分された。もっとも,ドモフスキの影響力は思想的な側面に限られ,国民民主党が政権に参加しえたのも23-26年の議会制の時期のみである。民族のエゴイズムを肯定し,ユダヤ人やウクライナ人に対して同化か排除しか認めなかった偏狭なナショナリズムは,社会主義体制をとる第2次世界大戦後のポーランドにも受け継がれている。ことさら無視されてはいるが,それほど国民民主党が現代のポーランドに残した遺産は大きい。
執筆者:宮島 直機
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