安達謙蔵ら立憲民政党の脱党者を中心として1932年結成された政党。安達は1931年の十月事件に刺激され,立憲政友会幹事長久原房之助らと結んで強力な政府を作るべく協力内閣運動をすすめたが失敗し,中野正剛らとともに脱党した。残留した同派メンバーははじめ安達の復党をはかったが,党幹部に阻止されたため,22名が脱党し,清瀬一郎,大竹貫一らの革新党も合流して,32年8月国民同盟準備委員会が作られ,12月22日国民同盟を発足させた。綱領に国際正義の再建,統制経済の確立,政界の積弊の打破などをうたい,内閣制の廃止と国務院の創設,日満経済ブロック,極東モンロー主義などの政策をかかげた。総裁は安達,幹事長は山道襄一で,第64議会では33議席を有した。また,日本の政党としてはじめて制服を採用し,イタリアのファッショを模した黒サージ,両胸ポケット,バンド付きのスタイルからも“和製ファッショ”と呼ばれた。斎藤実内閣にたいしては野党的立場をとり,ついで岡田啓介内閣では安達が内閣審議会委員に就任して与党化したが,党内には民政党復帰派(山道派)や解党派(中野派)などの動きがおこり,35年末までに山道ら8名が民政党に復帰し,中野も脱党して東方会に拠り,党勢は減退した。36年2月の総選挙では32名が立候補したが,当選は15名にとどまり,さらに37年4月の総選挙では当選11名へ落ち込んだ。結局,党勢不振のまま,40年7月26日解党式をおこない,大政翼賛会に合流した。
執筆者:江口 圭一
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
昭和前期の政党。1932年(昭和7)12月に結成。総裁は立憲民政党内閣の内相を務めた安達謙蔵。前年末に民政党を脱党した安達派を中心に,清瀬一郎ら革新党などの代議士30余人が参加。党内では統制経済を主張する中野正剛(せいごう)らと民政党復帰を主張する山道襄一派が対立,35年に中野派が脱党し,山道派は民政党に復帰,以後党勢は低落。40年7月新体制運動の過程で解党した。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
血液中の脂質(トリグリセリド、コレステロールなど)濃度が基準値の範囲内にない状態(脂質異常症)に対し用いられる薬剤。スタチン(HMG-CoA還元酵素阻害薬)、PCSK9阻害薬、MTP阻害薬、レジン(陰...
4/12 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
4/12 デジタル大辞泉を更新
4/12 デジタル大辞泉プラスを更新
3/11 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
2/13 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新