国学(学問、学派)(読み)こくがく

日本大百科全書(ニッポニカ) 「国学(学問、学派)」の意味・わかりやすい解説

国学(学問、学派)
こくがく

江戸時代に、日本の古典を研究対象とし、文献学的な研究方法を用い、日本の古代文化、とくに日本固有の「道」を明らかにすることを研究目的として成立し、発展した学問、ないしは学派の称。古くは律令(りつりょう)制のもとで、郡司(ぐんじ)の子弟らを教育する目的で諸国に設置された官立の学校の称(平安時代末、廃絶)。漢籍や仏典を学ぶことと区別して、日本の典籍を学ぶことを国学と称した古い例としては、虎関師錬(こかんしれん)の『元亨釈書(げんこうしゃくしょ)』(1322成る)が知られている。江戸時代には、倭学(わがく)(和学)の称も広く行われた。国学の主脈と目されている学者たちは、研究領域が中世歌学のそれを出なかった契沖(けいちゅう)が歌学と称しているのはともかく、荷田春満(かだあずままろ)は「復古の学」「皇倭(こうわ)の学」「倭学」「古学」、賀茂真淵(かもまぶち)は「にひまなび」「古学」、本居宣長(もとおりのりなが)はおもに「古学」、平田篤胤(ひらたあつたね)は「古学(いにしえまなび)」と称した。とくに、宣長は、学問といえば漢学(儒学)のことと思う当時の風潮を遺憾とし、その漢学と区別するために和学・国学の称を用いるのは、日本人として不見識であると論じている(宇比山踏(ういやまぶみ))。名称が国学に統一されたのは明治以後のことである。

[梅谷文夫]

成立

国学成立の要因としては、江戸時代初期から商業出版が盛んになり、多くの古典やその注釈が刊行されて研究の条件が整ったこと、木下長嘯子(きのしたちょうしょうし)、木瀬三之(きせさんし)、下河辺長流(しもこうべちょうりゅう)、戸田茂睡(とだもすい)らの歌学革新の運動などによって、自由討究の精神が広まったこと、時代の変化に対応する神道(しんとう)理論の形成を目ざす動きが、儒家、神道家において活発になったこと、水戸藩主徳川光圀(みつくに)が『大日本史』(1657~1906成る)の編纂(へんさん)に着手したことが、自国の歴史や文化に対する学者の関心を高めたことなどが考えられるが、直接には、光圀が、水戸藩の事業の一つとして『万葉集』の注釈を刊行することを計画し、その材料としての万葉の注釈を提出することを求められた長流が、契沖を適任者として推挙したことに始まる。

 契沖が水戸藩に提出した『万葉代匠記(だいしょうき)』(1688初稿成る)は、儒家が経書(けいしょ)の記載を証拠として注疏(ちゅうそ)(経書の注釈)をつくり、仏家が経典(きょうてん)の記載を証拠として注疏(ちゅうしょ)(経典の注釈)をつくったその態度・方法を模範とし、万葉の用例や、万葉と同時代の他の古典の用例を証拠として、万葉の時代における意味・用法を客観的・実証的に追究することによって歌意を明らかにするとともに、史書の記事などに基づいて作品の背景を考え、類歌や、ときには漢籍・仏典の記事をも参考資料として援用し、古人の心情を客観的に考察することに努めて作意を明らかにしたもので、この研究によって確立された文献学的研究方法を基本として、国学は、その学問体系を整えていくのである。しかし、契沖は、儒教・仏教を排斥した後の国学者たちと異なり、日本文化の特質は、神道・儒教・仏教の三教を経(けい)(縦糸)とし、和歌を緯(い)(横糸)として成立しているところにあると考えていた。三教のなかでも神道が根本となっていると指摘してはいるが、神道を客観的・実証的に解明することは、証拠とすべき文献が不足しているとして、これを論ずることを避け、『代匠記』完成後も、記紀歌謡や『古今集』『伊勢(いせ)物語』など、和歌・物語の注釈に精力を傾注した。そのため、研究領域においては、中世歌学のそれを出ることができなかった。

 その点を補正し、国学の研究意義を明示したのが荷田春満である。春満は『創学校啓(そうがっこうけい)』(1728成る)において、日本古来の神皇(しんこう)の教(古道)が、儒教・仏教の盛行によって廃絶の危機にあることを憂慮し、神皇の教を復興するために、国史・律令格式(りつりょうきゃくしき)の研究と、和歌の研究とを柱とする復古の学を提唱し、同時に、復古の学の基盤は語学であるとし、古語に通じ、古義(古典が成立した時代における意味)を明らかにしなければ、復古の学は成立しないと論じた。国学の研究目的、研究分野、研究方法を初めて統一的に論じたことは功績であるが、春満は、家学として伝えられた中世的な神道説、歌道説を廃して新しく根底から研究を組織し直すことをしなかったので、その意図を個々の業績に十分に反映させることができなかった。とくに、神代紀(じんだいき)を神典として重視し、主観的・観念的に組織した春満の神道説は、旧態依然たるもので、国学が目ざしたものとは異質なものであった。

 春満門下の賀茂真淵は、春満が意図したところを踏まえ、当時流行した荻生徂徠(おぎゅうそらい)の古文辞(こぶんじ)の説に暗示を得て、『国意考』(1765成る)、『語意考』『歌意考』『文意考』『書意考』を著し、一貫した思想で、国学の全分野にわたって、研究の指針と課題を具体的に示して、国学の学問的性格を明確にするとともに、神皇(かむすめらぎ)の道(古道)の究明を目的とする国学の体系を確立した。

[梅谷文夫]

展開

真淵は、神皇の道の究明は、古人の心とことばを知ることによって初めて可能になるとし、古人の心とことばを知るには、古人の歌文を研究すべきこと、とくに、古語の宝庫である『万葉集』を研究すべきこと、また、自らも万葉風の歌をつくって、古人の心とことばを自分のものにするよう努めるべきことを強調し、そのうえで『古事記』を研究するならば、神皇の道はおのずから明らかになると説いたのである。しかし、真淵が万葉研究に本格的に取り組むことができたのは晩年のことで、目標の『古事記』研究を完成することができなかった。真淵の門下から多数の有力な学者が出たので、国学は、儒学に対立する学派として広く認知されるようになるが、徂徠の門下が、聖人の道の追究を主とする者と、作詩を主とする者とに分裂したように、真淵の門下もまた、古道の追究を主とする者と、作歌や歌文の研究を主とする者とに分裂した。前者を代表するのが本居宣長で、後者を代表するのが加藤千蔭(ちかげ)、村田春海(はるみ)らの江戸派国学であるが、楫取魚彦(かとりなひこ)、加藤宇万伎(うまき)、荒木田久老(あらきだひさおゆ)らも有力な歌人・学者として知られている。ほかに、『群書類従(ぐんしょるいじゅう)』を編纂・刊行した塙保己一(はなわほきいち)がいる。

 宣長は、京都遊学中に契沖の著書に接し、「もののあはれ」説を基軸とする独自の歌学を組織していたが、松坂の旅宿で真淵と対面後、その『古事記』研究の志を継承する決意を固め、半生を費やして『古事記伝』(1798成る)を完成した。『古事記伝』は、契沖の研究方法を発展させた精密な実証と分析のうえに築かれた注釈であるが、それだけにとどまらず、個々の事項の注釈を総合することによって、研究対象としての『古事記』の古典としての本質と、日本固有の道としての古道の全体像とが明らかになるように、一貫した構想のもとに執筆されている。国学の中核となる古道説は、かくして宣長によって完成されたのである。宣長の業績があまりにも巨大であったために、宣長門下の学者たちは、師説を単に祖述するか、語学研究など、専門研究に進路を求めざるをえなくなった。宣長の長男春庭(はるにわ)、石塚龍麿(たつまろ)、春庭門下の東条義門(ぎもん)らが知られているが、宣長を通して春庭・義門の語学研究に強い影響を与えたのは京都の富士谷成章(ふじたになりあきら)である。一方、江戸派国学は、春海門下の清水浜臣(はまおみ)、小山田与清(おやまだともきよ)、岸本由豆流(ゆずる)らによって、考証を主とする着実な学風が形成されたものの、研究対象を自己の興味や関心によって選ぶことが多く、学派としての明確な主張をもつには至らなかった。

 古道の究明に無関心であった江戸派国学に反発した平田篤胤は、『古事記』『日本書紀』などの古伝説を再編成して『古史成文(こしせいぶん)』をつくり、その注釈『古史伝』(1825草稿成る)において、宇宙の支配がどのように構成されているのかを解明することによって、日本が万国の根本となる国であること、天皇が万国の宗主であることを証明しようとした。また、『赤県太古伝(せきけんたいこでん)』『印度蔵志(いんどぞうし)』などにおいて、中国やインドの古伝説を日本の古伝説に整合させることを試み、『古史伝』の説を補強しようとした。精力的な著作活動ではあったが、それらは、篤胤の実践的な信条を、古伝説の研究を装うことによって正統化しようとしたもので、契沖以来の国学の文献学的研究方法を否定するものであった。篤胤の主張は、時代の行動倫理として、混迷する幕末社会の現状を憂慮する地主富農層や神職らに多くの支持者を得、門下から、尊皇攘夷(そんのうじょうい)運動など政治運動に挺身(ていしん)した大国隆正(たかまさ)、生田万(いくたよろず)、佐藤信淵(のぶひろ)、鈴木重胤(しげたね)ら多数の活動家を出した。また、橘守部(たちばなもりべ)は、篤胤の影響を受けながらも、宣長の古道説をはじめ、諸家の説を批判して、一家をなした。

 宣長以後の国学の新しい傾向としては、文献の記載を批判的に検証することによって、事実そのものを明らかにすることを目ざす学者が多く現れたことがあげられる。篤胤や守部もその姿勢においては例外ではないが、この傾向を代表するのは伴信友(ばんのぶとも)、狩谷棭斎(かりやえきさい)である。信友は、『大日本史』によって皇統に加えられた弘文(こうぶん)天皇の即位の事実と、園城寺(おんじょうじ)が天皇の遺詔によって建立された事実とを証明し、あわせて壬申(じんしん)の乱に関して考察しようとした『長等(ながら)の山風(やまかぜ)』をはじめ、式内(しきない)・式外(しきげ)の神社の祭神・創建・沿革の考証、太占(ふとまに)(古代の占い)の研究、中国・朝鮮・琉球(りゅうきゅう)との交渉・往来に関する考証など、史料の分析・批判に欠陥はあるが、国学の研究領域を広げた多くの意欲的な研究を残した。また、棭斎は、中国清(しん)朝の考証学の方法を学んで、それまで恣意(しい)的に行われていた古典の本文批判を、批判の基準を明確にすることによって、客観的・合理的な古典研究の基礎学として組織し、『和名類聚抄箋注(わみょうるいじゅしょうせんちゅう)』(1827再稿成る)など優れた研究を残した。また、度量衡など制度に関する研究、金石文など、それまであまり注目されていなかった文献資料の研究においても、実証的な研究を残した。棭斎の影響を強く受けた浜臣門下の岡本保孝(やすたか)に学んだ木村正辞(まさこと)によって、近代万葉学の基礎が築かれた。

[梅谷文夫]

評価

国学が蓄積した多くの研究成果が、近代の国文学、国語学、国史学の基礎となったことは、功績として高く評価することができるが、反面、自国の文化の優越性を主張しようとして、偏狭な排外思想を広めるなど、鎖国下の日本人の視野の狭さに原因する独善的な思考や行動も目だち、学問としても、思想としても、多くの克服すべき問題点を残したことを指摘しないわけにはいかない。

[梅谷文夫]

『伊東多三郎著『国学の史的考察』(1932・大岡山書店)』『河野省三著『国学の研究』(1932・大岡山書店)』『西郷信綱著『国学の批判』(1948・青山書院/改訂版・1965・未来社)』『松本三之介著『国学政治思想の研究』(1957・有斐閣/改訂版・1972・未来社)』『大久保正著『江戸時代の国学』(1963・至文堂)』『三枝康高著『国学の運動』(1966・風間書房)』『大川茂雄・南茂樹著『国学者伝記集成』正続(1935・国本出版社/復刻版・1967・名著刊行会)』


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