四箇村(読み)しいかむら

日本歴史地名大系 「四箇村」の解説

四箇村
しいかむら

石垣島南部の登野城とうぬすく石垣いしやなぎい二ヵ村と、乾隆二二年(一七五七)登野城村から分村した大川ふーがー村、石垣村から分村した新川あらかー村の四村をさす呼称。シィカという。四ヶ村とも書き、石垣四箇村ともいった。現在でも四箇あるいは四箇字しいかあざという。近世には蔵元・在番仮屋や石垣いしやなぎい湊を擁し、諸役人が集住する八重山の中心地であった。市街地として早くから整備されたとみられ、崇禎五年(一六三二)在番仮屋の設置で石垣村のなか道筋(現主要地方道石垣港―伊原間線か)が広く造り直され、左右に「ていく木」(デイゴ)が植えられた。雍正一二年(一七三四)には石垣・登野城二村の道路が科料米で普請されたが、このとき「ていく木」は二本を残して伐採された。乾隆一七年には士族の子弟の教育機関として二村に初めて会所(学問所)が建てられている(八重山島年来記)

行政の中心地であるため臨時の課役も多かった。大風の時の船・諸役所の警備、地船建造用の堀の掘削や船の揚げ下ろし、四箇村管理山にのみ課せられた造船用大木の伐採、諸役所の雑役、漂着船があった時の取調役人の荷担ぎや馬人夫、漂着者の宿所の用意・賄い、蔵元・在番所・桃林とうりん寺など一〇ヵ所の月二回の掃除など種々雑多な夫役が課せられ、御用布のうち複雑で高度な技術を要する布も四箇村を中心に調えさせられた。そのため他村なみに五度夫であった夫遣も乾隆三〇年からは三度夫(二度は御蔵夫、一度は所遣夫)に緩和された(参遣状)。穀位も下々村と優遇されていたが、五度夫となっている宮古島平良ぴいさら五ヵ村(現平良市)と釣合が取れないとして、同三三年から布位と同じく上村となった(与世山親方八重山島規模帳)

四箇村
よつかむら

[現在地名]龍野市龍野町四箇・龍野町富永たつのちようとみなが

揖東いつとう上堂本かみどうもと村・下堂本村の西に位置し、揖西いつさい郡に属する。西は揖保いぼ川を挟んで日山ひやま村。四賀よつか村などとも記された(貞享元年「脇坂淡路守領知目録」脇坂家文書など)。慶長国絵図に四ヶ村とみえ、当村西方の揖保川左岸に中川原なかかわらが記される。領主の変遷は北龍野村と同じ。寛永一三年(一六三六)の龍野領村々高辻帳(八瀬家文書)では池田輝政による内検地高四二一石余、高三四八石余、ほかに龍野町四ヶ町分の内検地高四三七石余・高三六一石余、同町四郎兵衛分の内検地高一〇四石余・高八五石余、同町分五郎大夫分の内検地高一五六石余・高一二九石余、同中河原なかかわら町分助大夫分の内検地高一一九石余・高九八石余が記されている。正保郷帳では田方三二七石余・畑方二〇石余。前述の龍野町四ヶ町分など四ヵ所は龍野町・大慈庵だいじあんとともに揖西郡の町分として一括して高付されている。元禄郷帳では高三五一石余、ほかに「古ハ町分」と注記される四ヶ町村高六一二石余が記される。天保郷帳では「古は四ケ村・四ケ町村弐ケ村」と注記され、高八七九石余。

四箇村
しかむら

[現在地名]早良区四箇一―六丁目・四箇・四箇田団地しかただんち重留しげどめ七丁目・田村たむら六―七丁目

田村の南、室見むろみ(早良川)右岸にある。対岸は金武かなたけ(現西区)三瀬街道がほぼ南北に通る。村名は産土神四社があるためとも、有久・新原にいばるさかき・薦田の四名があったことによるともいう(続風土記)。中世後期には新原・警固けご・榊・曾賀部そがべの四ヵ村で四ヶ村同心とよばれる共同体を形成し、この四ヵ村に西山にしやま(現西区)を加えた五ヵ村で龍山たつやまを共同で利用する五ヶ村同心(五ヶ村地下中)をも形成した(文明一七年七月六日「遠田兼常下知状」・天文三年三月二日「四ヶ村同心申状案」明法寺榊文書など)

四箇村
しかむら

[現在地名]桜川村四箇

山来やまく村の西に位置し、古くは霞ヶ浦の入江に面していた。元禄郷帳には「四ケ村」と記され、村高七八七石余であるが、のちに村の一部が山来村に入ったため、天保郷帳では五九一石余に減少する。幕末は山来村の一部・大来栖おおくるす村・小来栖こくるす村を合併して村高一千六六石余の大村となり、天領一四石のほかは旗本七氏の相給地であった(各村旧高簿)

明和元年(一七六四)九月の常陸国河内郡四箇村新田検地帳(大杉神社蔵)に「村畑合七町二反二畝歩」とあり、寛延二年(一七四九)一一月の常陸国河内郡四箇村新田検地帳(同社蔵)、天保一〇年(一八三九)三月の常陸国河内郡四箇村畑方御水帳・常陸国河内郡四箇村田畑御水帳(同社蔵)も残っている。

四箇村
しかむら

[現在地名]小川町中延なかのべ

西南は立延たちのべ村、園部そのべ川を隔てて栗又四箇くりまたしか(現新治郡玉里村)がある。中世は宍戸氏の支配下にあった。元和年間(一六一五―二四)村差出帳には「茨城郡宍戸庄竹原郷四ケ村」とみえ、天保郷帳に「四箇村」とある。「新編常陸国誌」には「野田村ノ西方ニ在リ、元禄十五年ノ石高五百十五石一斗九升、後蓋下田村ト改ム、今廃ス」とあり、元文三年(一七三八)上吉影かみよしかげ村の貴船きふね神社の奉納金の碑文には「霜田村」と記される。

四箇村
しかむら

[現在地名]玉里村栗又四ケくりまたしか

園部そのべ川右岸にあり、南は田木谷たぎや村。玉里台地の東側台地上に集落がある。江戸時代は旗本領で、元禄郷帳の村高は一千一九石余。「新編常陸国誌」によれば、村内に一町田いつちようだ辻坪つじつぼ八幡やはた宮後みやうしろ沼田ぬまた堀崎ほりさきの小名がある。幕末に栗又四箇村となり、旗本土屋・彦坂・松平・小野各氏が支配した(各村旧高簿)

四箇村
しかむら

[現在地名]福島市飯坂町いいざかまち湯野ゆの

湯野村の南に位置し、伊達郡に属する。南は摺上すりかみ川を隔てて下飯坂村、東は板谷内いたやうち村、西は摺上川を隔てて上飯坂村。元和五年(一六一九)湯野村の内蔵之助なる者が上飯坂・下飯坂・板谷内・湯野の四村の野地を米沢藩の許可を得て開発して立村したという(元禄二年「山論付返答書」福島県史)。村の中心は摺上川の河岸段丘の最下段につくられ、耕地を背にした村づくりであった。古高新高帳に四箇新田とみえ、米沢藩領時代の古高三三四石余、幕府検地による新高二五三石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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