四月テーゼ(読み)しがつテーゼ

改訂新版 世界大百科事典 「四月テーゼ」の意味・わかりやすい解説

四月テーゼ (しがつテーゼ)

1917年のロシア二月革命後,4月16日に帰国したボリシェビキの指導者レーニンが,翌17日の集会で発表した革命の戦略・戦術を述べたテーゼ。後に《現在の革命におけるプロレタリアート任務について》と題して機関紙《プラウダ》に発表された。テーゼは,二月革命で成立した臨時政府資本家政府であり,これを一切支持せず,また第1次世界大戦も依然として帝国主義戦争であるため〈革命的祖国防衛主義〉には絶対反対するという立場に立つ。そして革命でプロレタリアートが権力を掌握できなかった原因を,彼らの自覚と組織性の欠如に求めた。また,ここでは大衆に対する暴力が存在せず,革命の第二段階への移行が合法的である状況下では,実践による説得で大衆の臨時政府に対する幻想を打ち破り,ソビエトの意識を変えることによって,ソビエト権力の樹立を図ることが任務であるとした。四月テーゼは,二月革命以後,臨時政府に対する態度で混乱し,革命的祖国防衛主義にも明確な反対の態度をとれなかったボリシェビキに,十月革命に向かう新しい革命の戦略・戦術を与えた点で大きな意義をもっている。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「四月テーゼ」の意味・わかりやすい解説

四月テーゼ
しがつてーぜ
Апрельские Тезисы/Aprel'skie Tezisï ロシア語
April Theses 英語

ロシア革命の指導者レーニンが1917年4月に発表した、ボリシェビキ党のとるべき革命戦略の要綱。亡命地スイスで同年、二月革命勃発(ぼっぱつ)の知らせを受けて帰国したレーニンは、帰国の直後10項目よりなる要綱を党の集会で読み上げ、それに注釈をつけて「現在の革命におけるプロレタリアートの任務について」と題した文書を『プラウダ』紙に発表した。そのなかでレーニンは、臨時政府のもとでも戦争(第一次世界大戦)は依然として帝国主義戦争であること、当面する状況は革命の第一段階から第二段階への過渡であり、その特異点たる最大限の合法性を利用すべきこと、臨時政府をいっさい支持しないことを主張し、労働者代表ソビエトはただ一つ可能な革命政府の形態であると述べた。そして全権力をソビエトに移し、議会制共和国ではなく労農ソビエト共和国の樹立を目ざすべきことを提起し、社会民主党から共産党への党名変更、第三インターナショナルの創設に言及した。当時の党指導部は臨時政府条件付き支持に傾いていたので、当初このテーゼは党内からも激しい抵抗にあったが、4月の第7回党協議会で全党の方針として採択され、これが、その年の十月革命を目ざす基本路線の指針となった。

[原 暉之]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「四月テーゼ」の意味・わかりやすい解説

四月テーゼ
しがつテーゼ
Aprel'skie Tezisy; April Theses

1917年4月 17日 (旧暦4日) ,亡命先のスイスから帰国したレーニンが「当面する革命におけるプロレタリアートの任務」と題して演説し,4月 20日 (旧暦7日) 『プラウダ』紙に発表した革命戦術。 10項目から成るそのおもな内容は,戦争について,ロシア革命の性質,臨時政府への態度,ソビエト共和国,土地の国有化,インターナショナルの復活などである。当時このテーゼはボルシェビキの内外を問わず激しい批判を浴びたが,まもなく激論の末,「すべての権力をソビエトに」のスローガンとともに党の「行動綱領」として採択された。このテーゼ中,特にロシアの現状を革命の第1段階 (ブルジョア民主主義革命) から第2段階 (プロレタリア社会主義革命) へ移行したと評価したこと,および新しいロシアの国家体制をソビエト共和国と想定したことはレーニンの独創的見解であり,二月革命以後明確な方針を失っていたボルシェビキに新しい指針を与えた。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「四月テーゼ」の解説

四月テーゼ(しがつテーゼ)

二月革命後混迷していたボリシェヴィキ党に,十月革命へ向かう新しい革命の戦略戦術を与えたレーニンの報告テーゼをさす。これは1917年4月17日(ロシア暦4日),亡命先より帰国したレーニンが党会議で提示したもので,臨時政府は資本家の政府だとしていっさい支持せず,全国家権力を労働者代表ソヴィエトへ移すべきだとソヴィエト内部で宣伝することを提案している。

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旺文社世界史事典 三訂版 「四月テーゼ」の解説

四月テーゼ
しがつテーゼ

1917年4月17日,亡命地スイスから帰国したレーニンが,ペトログラードで発表した十一月革命に向かう戦略と戦術
ロシア革命達成のために,すべての権力をソヴィエトに集中させて,ソヴィエト共和国を建設するという内容で,以後のボリシェヴィキの運動を規定した。

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世界大百科事典(旧版)内の四月テーゼの言及

【ロシア革命】より

…4月20日,首都の兵士のイニシアティブでミリュコーフ打倒,侵略反対のデモがおこり,ミリュコーフは閣外へ去った。ボリシェビキは帰国したレーニンの〈四月テーゼ〉を受け入れ,ソビエト権力の樹立をめざす活動を開始する。他方,ソビエト主流派のメンシェビキとエス・エル党は,この動揺ののち臨時政府に入閣し,連立政府を発足させた。…

【ロシア社会民主労働党】より

… 17年に二月革命が勃発すると,党の大勢はブルジョア革命の立場に立ち,組織統一が進んで統一大会の日程を決めた。しかしレーニンが帰国して〈四月テーゼ〉で革命を第二段階のプロレタリア革命に転化するよう呼びかけると,ボリシェビキはこれに従い,ブルジョア革命の立場を守ったメンシェビキと分離していった。ブルジョア臨時政府はやがて社会主義者の入閣により補強されたが,民衆の望む〈平和,パン,土地〉を与えることはできなかった。…

※「四月テーゼ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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