四ツ池遺跡(読み)よついけいせき

国指定史跡ガイド 「四ツ池遺跡」の解説

よついけいせき【四ツ池遺跡】


大阪府堺市西区浜寺船尾町・鳳北町にある集落跡。大阪平野の南部、和泉丘陵から北へ突出している支丘の一つ、三方を崖と自然の河川に囲まれた船尾台地の北端に位置する。弥生時代を中心とした集落跡で、竪穴(たてあな)住居跡、掘立柱建物跡と土器石器、木器などが出土河内や紀伊方面との交渉を物語るものもあり、畿内(きない)にある弥生時代の遺跡として重要であるだけでなく、当時の和泉地方の状況を示す遺跡としても貴重なことから、1989年(平成1)に国の史跡に指定され、2001年(平成13)に追加指定を受けた。遺構は大まかに、3ヵ所の集落地域、2ヵ所の方形周溝墓群、2ヵ所の縄文時代遺構群に分けることができ、丘陵周辺には多数の溝や自然河川跡が認められる。集落群は遺跡の中心で、丘陵の先端に位置し、最初に弥生時代の遺構が検出された場所であり、25軒以上の竪穴住居が密集している。V字形の溝は丘陵を区画するように掘られ、溝内からは弥生時代前期の木葉文土器が出土。その他の地域でも縄文時代後期から始まり、弥生時代前期、中期を中心に平安時代にまでおよぶ遺構と遺物が検出されている。JR阪和線鳳駅から徒歩約20分。

出典 講談社国指定史跡ガイドについて 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「四ツ池遺跡」の意味・わかりやすい解説

四ツ池遺跡
よついけいせき

大阪府堺(さかい)市浜寺船尾町に所在する弥生(やよい)時代(前期~後期)の拠点的大集落遺跡石津川河口に近く、西北西に向かって舌状に張り出した低位段丘の突端部分と、その周辺の沖積微高地東西500メートル、南北約600メートルにわたって、縄文後・晩期、弥生前~後期、古墳時代(一部中世)に及ぶ遺構・遺物が検出される。弥生前期にはやや離れ離れに分布する三地点以上の小集落の複合体であったが、中期には段丘上に住居が集結するとともに、その北部の低地に方形周溝墓群が形成される。また中期および後期末以降周辺に多くの集落を形成させており、四ツ池遺跡はつねにそれらの遺跡群の中核的拠点であった。遺跡の中心部は国指定の史跡となっている。

[石部正志]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「四ツ池遺跡」の意味・わかりやすい解説

四ツ池遺跡
よツいけいせき

大阪府中西部,堺市西区の浜寺にある,弥生時代の環濠のある集落遺跡。低地との比高 5mの台地上に営まれている。弥生前・中期の居住区は,東西 100m,南北 150mの周囲をV字形の溝がめぐっており,その中に,竪穴住居,高床の建物跡がある。居住区の周囲に墓域があり,方形周溝墓土壙墓甕棺墓などがある。

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