四ッ屋村(読み)よつやむら

日本歴史地名大系 「四ッ屋村」の解説

四ッ屋村
よつやむら

[現在地名]松任市四ッ屋町

福留ふくどめ村の東に位置し、東は長島ながしま村・五影堂ごえどう村。中世には与津屋とも書いた。天文五年(一五三六)五月二日、京都相国しようこく寺興禅軒より「四屋よつや」の知行回復の要請が摂津石山本願寺にあったが、証如は断ったところ、一〇月一日にいたり、四屋の代官請に関し興禅軒から三十数貫の返弁についての申入れがあった(天文日記)。同六年以後、「りかんの彦右衛門」の興禅軒領与津屋に対する押領があったが、本願寺は興禅軒に知行を安堵している(同日記同六年一二月六日条・同七年八月七日条・二八日条)

四ッ屋村
よつやむら

[現在地名]燕市四ッ屋

上児木かみちごのき村の西にあり、南の中川なかがわ村の枝郷。慶安二年(一六四九)に村上藩領となり、明暦三年(一六五七)検地が行われた。検地帳(更科家文書)によれば村高二六三石(反別二四町八反)、本田畑六九石五斗(含屋敷、七町二反)・見取新田一二九石八斗(一二町四反)・新田六三石五斗(五町二反)、百姓一七(屋敷持一六)。貞享元年(一六八四)郷村高辻帳では本田畑五六石六斗。

四ッ屋村
よつやむら

[現在地名]長野市川中島町四ッ屋

さい川が善光寺平ぜんこうじだいらに入る口に位置し、西は小松原こまつばら村、南は今里いまざと村、東は上氷鉋かみひがの村に接し、北は犀川を越えて水内みのち安茂里あもりと境する。

慶長七年(一六〇二)の川中島四郡検地打立之帳(小柳文書)に「八百三拾七石三升壱合 四ッ屋村」とある。寛永四年(一六二七)一二月一四日の真田信重宛行状(大鋒院殿御事蹟稿)には「被下置知行四津屋村ニ而六拾石」とあり「四津屋村」とも記した。

慶長年代花井遠江守吉雄によって上堰かみせぎ・中堰・下堰が開発され、四ッ屋村はその堰守を命ぜられた。

四ッ屋村
よつやむら

[現在地名]滑川市四ッ屋

早月はやつき川が形成した新扇状地の末端部付近に位置し、東は追分おいわけ村。四屋とも記す。正保郷帳では高二八二石余、田方一七町九反余・畑方九反余、新田高二八石余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印によると草高四四七石、免五ツ、明暦二年(一六五六)の新田高二石、小物成は野役三六匁(三箇国高物成帳)。所属組は平塚ひらつか村と同じ。享保一八年(一七三三)の新川郡村廻帳(川合家文書)では村肝煎は九郎右衛門、家数一八はすべて百姓。嘉永二年(一八四九)加賀藩は早月川筋の変地跡(廃川地)を仕法建てして新田開発にあたったが、このとき当村および栗山くりやま村・北野きたの村など六ヵ村は一四一石の田方新開を命じられた(「早月川筋仕法開請高申渡書」伊東家文書)

四ッ屋村
よつやむら

[現在地名]五泉市西四ッ屋にしよつや

能代のうだい川左岸の自然堤防上にあり、北西橋田はしだ村、北東能代村に接する。中世は菅名すがな庄に属し、上州沼田ぬまた(現群馬県沼田市)の木波四郎左衛門が新保氏・山口氏・中村氏と協力して開発したため四ッ屋と称したと伝える(中蒲原郡誌)。慶長三年(一五九八)新発田藩領、同一六年沢海藩領になり、正保国絵図に四七〇石余とある。

四ッ屋村
よつやむら

[現在地名]五泉市東四ッ屋ひがしよつや

阿賀野川の扇状地と早出はいで川の自然堤防が接する地にあり、東は中川新なかがわしん村、北は土堀つちぼり村・四ッ屋新よつやしん村と接する。近世初期までは河川の流入する荒地であったが、しだいに開墾され、貞享元年(一六八四)の村上藩領分郷村高辻帳には高一〇六石一斗余と記される。宝永七年(一七一〇)幕府領となるが、のち高田藩・白河藩領と変遷し、天保元年(一八三〇)沼津藩領となる。

四ッ屋村
よつやむら

[現在地名]平賀町四ッ屋

ひら川中流右岸に沿い、東は小杉こすぎ村と石畑いしばたけ村。

貞享元年(一六八四)の郷村帳に寛文四年(一六六四)以降の新田として高一一五・七石とある。貞享四年の検地帳に村高五六・八八八石、うち田方五町七反二畝一六歩、五二・〇〇五石、畑方一町一反八畝二七歩、四・八八三石とあり、空地一反二畝二八歩、永荒田一畝六歩が記される。元禄三年(一六九〇)には尾崎組に属し、村位は中(平山日記)

四ッ屋村
よつやむら

[現在地名]板倉町中四ッ屋なかよつや

別所べつしよ川が平野部に流れ出る扇状地左岸に位置する。西は宮島みやじま村、北は田屋たや村に接する。正保国絵図に高四三石余とある。天和三年郷帳では高一二八石余。枝郷に名川ながわ新田・大嶺おおみね新田などがある。同郷帳によれば、名川新田・大嶺新田はそれぞれ高二石余・一四石余であった。

四ッ屋村
よつやむら

[現在地名]上越市下四ッ屋しもよつや

松之木まつのき村の東、別所べつしよ川の右岸に位置し中江なかえ用水が流れる。正保国絵図に村名がみえ高二三三石余。蓮浄寺本天和三年郷帳によると高二二一石九斗余、うち漆高四斗二升。元禄郷帳天保郷帳では二二二石八斗余。

四ッ屋村
よつやむら

[現在地名]新井市上四屋かみよつや

籠町南葉かごまちなんば山の東山麓、矢代やしろ川西岸に位置し、西は五日市いつかいち村、北は十日市とおかいち村と接する。正保国絵図に高一六〇石余とある。

四ッ屋村
よつやむら

[現在地名]糸魚川市四ッ屋

新町あらまち村の南西にあたり、田中たなか赤沢あかさわの集落からなる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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