喜多七太夫(読み)きたしちだゆう

精選版 日本国語大辞典 「喜多七太夫」の意味・読み・例文・類語

きた‐しちだゆう【喜多七太夫】

安土桃山・江戸初期の能役者。名は長能。喜多流の祖。七歳で能を舞い七ツ大夫と呼ばれる。堺の人。はじめ金剛座に属す。大坂夏の陣で豊臣方につき、落城後、浪人していたが、のち二代将軍徳川秀忠に召し出された。天正一四~承応二年(一五八六‐一六五三

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「喜多七太夫」の意味・わかりやすい解説

喜多七太夫
きたしちだゆう

[生]天正14(1586)
[没]承応2(1653).1.7. 江戸
江戸時代初期の能役者。北七太夫とも書く。喜多流の祖。和泉国堺の眼科医の子。幼少から能をよくし,豊臣秀吉に仕えて金剛座に加えられ,金剛方七ッ太夫と呼ばれて人気を博した。 16歳で金剛三郎を名のり,慶長 10 (1605) 年金剛太夫を継いだ。大坂夏の陣に豊臣方に加わり,落城後は一時引退したが,元和5 (19) 年徳川秀忠に召しかかえられた。四座太夫並みの扱いを受け一流を認められ,寛永4 (27) 年頃から北七太夫と名のったため,流派は七太夫流また喜多流と呼ばれた。七太夫および六平太は喜多宗家の名のり名となる。

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