喜々津村(読み)ききつむら

日本歴史地名大系 「喜々津村」の解説

喜々津村
ききつむら

[現在地名]多良見町化屋名けやみよう囲名かこいみよう中里名なかざとみよう市布名いちぬのみよう西川内名にしかわちみよう木床名きどこみよう

現多良見町域の東部に位置し、北部は内海(大村湾)に臨む。海辺に塩浜が営まれ、喜々津川が流れる。南東に長崎路筋の井樋いび峠がある。木床名に西郷氏の西郷さいごう城跡があり、中里名の喜々津氏が居城したという金尾かなお(金谷城)跡に平場や五輪塔残片のほか、空堀があったという。金尾城跡近くの円通えんつう寺にある観音堂付近に応永三一年(一四二四)銘の宝篋印塔があり、台座石に刻む帰真一翁純禅定門聖儀はほかの墓塔ともども同城主の関連とされる。化屋名の阿蘇あそ神社の由緒では天文三年(一五三四)伊佐早いさはや領主の西郷尚善が同社を創祀したと伝え、その古社地である囲名にあるのが西郷館であるという。喜々津氏の初代という喜々津伊豆は大村純前に仕えて当地を知行、永禄六年(一五六三)大村純忠の野岳夜討合戦で討死、二代目薩摩は彼杵そのき(現東彼杵町)に移住、天正一四年(一五八六)純忠の早岐井手平はいきいでひら(現佐世保市)攻撃に参陣して功があったとされる(喜々津氏系図)フロイス「日本史」によれば、大村から二里ほどの対岸にキキヅQuiquinzuとよぶ城があり、ドン・プロタジオ(有馬鎮貴)とドン・バルトロメオ(大村純忠)の敵で、異教徒でもある伊佐早西郷氏のものであったが、一五八四年有馬氏に投降したという。同城の連中は戦闘的で、キリシタンがいるところを頻繁に襲撃、略奪し、捕らえた者を捕虜にするなど、甚大な危害、殺戮、財産の損失などを受けてきたので、大村のキリシタンにとってこの支配者の交替は大きな喜びになったともいう。また同城の人々は有馬晴信の臣下になってから城主の勧告で七〇〇名が受洗したと伝える(「一五八五年日本年報下布教区分」イエズス会日本年報)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報