唐津藩(読み)からつはん

日本大百科全書(ニッポニカ) 「唐津藩」の意味・わかりやすい解説

唐津藩
からつはん

肥前国松浦(まつら)(佐賀県唐津市)に置かれた藩。藩主は寺沢氏以外は譜代(ふだい)。1587年(天正15)豊臣(とよとみ)秀吉は波多(はた)氏の旧領上松浦(かみまつら)地方を安堵(あんど)したが、1593年(文禄2)これを没収、跡地6万3000余石は寺沢広高(ひろたか)に与えられた。寺沢氏は薩摩(さつま)国(鹿児島県)出水(いずみ)郡にも2万石を領していたが、のちに関ヶ原の戦いの論功として天草(あまくさ)4万石を加増され、1614年(慶長19)には、筑前(ちくぜん)(福岡県)怡土(いと)郡と出水郡の領地を交換して、松浦・天草・怡土3郡に12万3000石を領する大名となった。1616年(元和2)の総検地で、15万0700余石の石高となった。1637年(寛永14)の島原の乱後、天草の所領を没収され、また1644年(正保1)藩主堅高(かたたか)の自殺により無嗣(むし)絶家となり、所領は一時幕領となった。その後1649年(慶安2)に大久保忠職(ただもと)(譜代)が播磨(はりま)(兵庫県)明石(あかし)から入部し、8万3000石を領して新たに立藩した。1674年(延宝2)には庄屋(しょうや)の転村制を実施するなど農政に変化があったが、1678年2代忠朝(ただとも)は下総(しもうさ)(千葉県)佐倉に移封、かわって同地から松平乗久(のりひさ)が入部して7万石を領した。松平氏は乗春(のりはる)、乗邑(のりむら)と続いたが、1691年(元禄4)志摩(三重県)鳥羽(とば)に移り、同地より土井利益(とします)が入部した。土井氏による唐津藩統治は80余年に及び、この間、儒学者吉武(よしたけ)法命を招くなど郷塾を盛んに興したりしたが、1762年(宝暦12)下総(茨城県)古河(こが)に転封した。土井氏のあと、三河(愛知県)岡崎領主の水野忠任(ただとう)が継いで6万石を領したが、忠邦(ただくに)の代に1万石を幕府に献上、1817年(文化14)遠江(とおとうみ)(静岡県)浜松に転封し、小笠原長昌(おがさわらながまさ)が陸奥(むつ)(福島県)棚倉(たなぐら)から入部、以後、明治に至るまで小笠原氏が統治した。1871年(明治4)廃藩、唐津・伊万里(いまり)・佐賀・三瀦(みつま)・長崎の各県を経て、1883年再置の佐賀県に編入。

[長野 暹]

『『唐津市史』(1962・唐津市)』


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改訂新版 世界大百科事典 「唐津藩」の意味・わかりやすい解説

唐津藩 (からつはん)

肥前国(佐賀県)松浦郡唐津に藩庁を置いた譜代中藩。1593年(文禄2)朝鮮の役で改易された波多信時に代わって豊臣大名寺沢広高が配置されたことに始まる。石高は6万3000石。98年(慶長3)朝鮮の役における軍功によって筑前怡土(いと)郡2万石,1600年関ヶ原の戦における戦功によって肥後天草4万石が加増された。合計石高12万3000石。広高は唐津城を完成する一方,新田開発,松浦川の改修工事,虹ノ松原防風林の植樹につとめ,16年(元和2)には総検地を実施して,藩制の基礎を整備したが,2代堅高のとき勃発した島原の乱によって天草4万石が没収され,47年(正保4)世嗣断絶によって改易となった。49年(慶安2)播磨明石より大久保忠職が8万3000石で入封。以後唐津藩は譜代藩となる。忠職は知行制度を改革し,2代忠朝は転村庄屋制を採用したが,78年(延宝6)下総佐倉に転封となり,代わって同地より松平乗久が7万石で入封した。91年(元禄4)3代乗邑が志摩鳥羽に転封になると,代わって同地より土井利益が7万石で入封。唐津藩ではこの土井時代に文治政治が興隆し,藩校盈科(えいか)堂が創設されたほか郷学が盛んとなった。1762年(宝暦12)4代利里が下総古河に転封になると,代わって三河岡崎から水野忠任が6万石で入封した。水野時代は上知1万石によって藩財政が窮乏し,年貢増徴策を打ち出したため,71年(明和8)虹ノ松原一揆が勃発し,藩側の敗北に終わった。4代忠邦は財政改革を推進する一方で,幕閣就任への野心を抱き,1817年(文化14)遠江浜松に転封となり,代わって陸奥棚倉から小笠原長昌が6万石で入封した。小笠原氏は人頭税を課し,人口減少の防止につとめた。5代長国の養子長行(ながみち)は若年寄を経て老中となり,第2次長州征伐に際して,将軍家茂から全権を委任され,明治維新における唐津藩の立場を微妙にした。71年(明治4)廃藩置県によって唐津県となり,のち伊万里県を経て佐賀県に編入された。
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藩名・旧国名がわかる事典 「唐津藩」の解説

からつはん【唐津藩】

江戸時代肥前(ひぜん)国松浦(まつら)郡唐津(現、佐賀県唐津市)に藩庁をおいた、初め外様(とざま)藩、のち譜代(ふだい)藩。藩校は盈科堂(えいかどう)。1593年(文禄2)、寺沢広高(てらざわひろたか)が朝鮮での文禄の役における戦功により、豊臣秀吉(とよとみひでよし)から6万3000石(波多(はた)氏旧領地)を与えられて入封(にゅうほう)。広高は関ヶ原の戦いでは東軍に与して活躍、その戦功により肥後(ひご)国天草4万石を加増され、石高は他の領地を含めて12万3000石に達した。唐津城の完成、新田開発、松浦川の改修などが進められたが、2代藩主の堅高(かたたか)のときに島原の乱が勃発し、天草の領地は没収となった。無嗣(むし)のため改易(かいえき)された寺沢氏に代わって、1649年(慶安2)に大久保忠職(ただもと)が入封。以後、唐津藩は譜代藩となり、松平(大給(おぎゅう))氏、土井氏、水野氏と譜代大名が頻繁に交代、次いで1817年(文化14)に小笠原長昌(ながまさ)が陸奥(むつ)国棚倉藩(たなぐら)から6万石で入って以後は、明治維新まで小笠原氏5代が続いた。第2次長州征伐の際には、最後の藩主長行(ながみち)が第14代将軍徳川家茂(とくがわいえもち)から全権を委任された。1871年(明治4)の廃藩置県で唐津県となり、その後、伊万里(いまり)県、佐賀県、三潴(みづま)県、長崎県を経て、83年に再置された佐賀県に編入された。

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百科事典マイペディア 「唐津藩」の意味・わかりやすい解説

唐津藩【からつはん】

肥前(ひぜん)国唐津城に藩庁をおいた譜代(ふだい)藩。藩主は寺沢氏(外様(とざま))・大久保氏(以降譜代)・松平(大給)氏・土井氏・水野氏・小笠原氏と変遷。領知高約6万石〜12万3000石。
→関連項目肥前国

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「唐津藩」の意味・わかりやすい解説

唐津藩
からつはん

江戸時代,肥前国松浦郡唐津地方 (佐賀県) を領有した藩。慶長2 (1597) 年以降寺沢氏8万石,大久保氏8万 3000石,松平 (大給) 氏7万石,土井氏7万石,水野氏6万石を経て,文化 14 (1817) 年小笠原長昌が6万石で入封。以後子孫在封して廃藩置県に及ぶ。小笠原氏は譜代,江戸城帝鑑間詰。

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デジタル大辞泉プラス 「唐津藩」の解説

唐津藩

肥前国、唐津(現:佐賀県唐津市)を本拠地とした藩。豊臣秀吉の朝鮮戦役で功のあった寺沢広高が6万3000石を与えられ入封。2代藩主の堅高の(かたたか)の時に島原の乱が起こり天草領を没収される。堅高の死後、一時天領となるが、慶安年間に譜代の大久保氏が播磨国から8万3000石で入封して再立藩。以後の藩主に、松平(大給)氏、水野氏、小笠原氏など。

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世界大百科事典(旧版)内の唐津藩の言及

【寺沢堅高】より

…江戸初期,肥前唐津藩12万石の2代藩主。兵庫頭。…

【肥前国】より

…47年(正保4)に寺沢堅高が自殺したため同地は幕府領になったが,49年(慶安2)大久保氏が入領した。以後唐津藩は松平(大給(おぎゆう)),土井,水野,小笠原と譜代大名が交替統治した。 彼杵(そのぎ)地方を領していた大村氏は純忠の子喜前(よしあき)が秀吉によって本領を安堵されたが,長崎は秀吉の直轄領になった。…

※「唐津藩」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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