唐人屋敷跡(読み)とうじんやしきあと

日本歴史地名大系 「唐人屋敷跡」の解説

唐人屋敷跡
とうじんやしきあと

[現在地名]長崎市館内町

江戸時代、幕府が唐人を集住させた地。唐館ともいう。オランダ人を出島でじまに収容したあとも唐人は長崎市中での居住を許されていたが、その人数が増加し、また密貿易や禁教、あるいは風紀の問題が生じてきたため、「阿蘭陀人さし置かれ候出島のごとく一囲にいたし差置き然るべき」として一ヵ所に居住させることとした(長崎御役所留)。この命に従って島原藩主松平忠房・平戸藩主松浦鎮信は長崎に出張して長崎奉行とともに馬込まごめ大浦おおうら十善寺じゆうぜんじ村内御薬園地を検分、十善寺に決定され、町年寄高島四郎兵衛が普請惣支配役、出来大工できだいく町の乙名岡崎喜兵衛が大工差配役となった。元禄二年(一六八九)四月一応の竣工をみて、長崎奉行が唐人屋敷と命名した(唐通事会所日録)。普請費用六三四貫目余のうち幕府からの貸与銀四〇〇貫目のほかは長崎地下配分銀から支出した(元禄唐人屋敷覚書)。市中の唐人約五千人を移住させた。当時は六千八三〇坪で、元禄七年までに八千一五坪ほどに拡張(長崎覚書)、宝暦一〇年(一七六〇)頃は惣坪数九千三七三坪余(唐人番日記・長崎実録大成)。周囲は練塀と竹矢来で二重に囲まれ、その間に番所が六棟あった。大門の右手に制札場、両側に大門番所・新門番所があり、唐人番・船番が詰めた。これらの右手の雨覆貫屋とよばれる長屋に荷物改所、左手に銀札方役人部屋が置かれた。大門とその正面の二ノ門の間の六〇〇坪余の広場があり、検使部屋・通事部屋・乙名部屋・札場・土蔵、二ノ番所・探り番所・牢屋などがあった(長崎市中明細帳など)

享和二年(一八〇二)の長崎絵図に唐人屋鋪として二階建屋敷や平屋が描かれ、その北側に番所が置かれた。その北に新石火矢台、さらに北に細い架橋をもって通じる新地があり、唐人荷御倉・御米蔵・御番所とみえる。唐人が市中を徘徊して密商を行っていたが、手斧・竹槍などで威嚇することもあり、地役人の取締では応じきれないとして、文政三年(一八二〇)門前に番所を新設、大村藩から五八人を出して警備にあたらせた(長崎県史)。「弘化二巳年雑集記」に唐人一九棟とあるが、敷地内に通事部屋・乙名部屋・探番居所・番所・牢屋などが置かれた。また天后堂・観音堂・土神祠などが祀られ、関帝堂なども建立されていた。大門と中門の間は札場が置かれ、市店一〇七が開かれた(長崎実録大成)。町乙名から任命される唐人屋敷乙名はすでに元禄元年に二人定められ、同一〇年からは三人とされた(元禄唐人屋敷覚書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報