和歌山(県)(読み)わかやま

日本大百科全書(ニッポニカ) 「和歌山(県)」の意味・わかりやすい解説

和歌山(県)
わかやま

近畿地方の南部にあり、紀伊半島の南西部を占める県。北は和泉(いずみ)山脈で大阪府と接し、西は紀淡海峡を隔てて兵庫県淡路島と、また紀伊水道を隔てて四国の徳島県と相対する。紀淡海峡に臨む友ヶ島の西端は東経135度00分で、日本列島の中央子午線に接する。南西部は太平洋に突出し、南端の潮岬(しおのみさき)は北緯33度25分、本州最南端にあたる。沿岸は熊野灘(なだ)の荒海に面し男性的景観を示している。東は紀伊山地の脊梁(せきりょう)をたどる紀伊・大和(やまと)の旧国境のまま奈良県と接し、さらに熊野川の流路で三重県と境するが、その間に全国でもまれな県境の飛地北山村がある。面積4724.65平方キロメートル、人口92万2584(2020)、人口密度は195.3人であるが、人口は紀の川流域と海岸部に集まり、とくに和歌山市と周辺市町村の人口は県総人口の50%を超える。一方、県土の60%を占める山地部では過疎化が進み、23市町村が「過疎地域持続的発展特別措置法」適用(2021年現在)の地域になっている。また65歳以上の人口は総人口の33.4%(2020)を占め、全国の11位と高い。県都和歌山市が北西隅に偏在することもあって、北高南低といわれる地域格差がよく問題にされる。和歌山市を含めて全県の人口が近年停滞しており、これが半島に位置し国土幹線からの隔離によるとの意識を高め、「半島振興法」施行(1985)への推進力となった。2020年(令和2)の1人当りの県民所得は275万1000円で全国平均の92%、全国の29位である。

 2020年10月現在、9市6郡20町1村からなる。

[小池洋一]

自然

地形

大阪府と境する和泉山脈の南麓(ろく)を西流する紀の川に沿って中央構造線が東西に走るため、和歌山県は地質上、内帯と外帯にまたがる。内帯に属する紀の川北部は、おもに白亜紀の和泉層群を主とする和泉山脈で、西へ向かって高度を下げ、紀淡海峡で友ヶ島となる。紀の川北岸では断層崖(がい)下に洪積段丘が広がるが、下流部では沖積平野に移行する。外帯は県域の大部分を占める紀伊山地で、ほぼ東西方向の地層が年代順に帯状に配列する。紀の川南岸では古生層の結晶片岩からなる三波川(さんばがわ)帯が有田(ありだ)川流域に達し、その南は秩父(ちちぶ)累帯を経て中生代の日高川層群、音無(おとなし)層群と続く。最南部は第三紀の牟婁(むろ)層群で、その東部には火成岩を含む熊野層群が現れ、紀南の温泉や橋杭(はしぐい)岩などの風景を生み出している。

 和歌山県の地形は紀伊山地とこれを取り巻く海岸からなる。紀伊山地の中央を大峰山脈と並んで南北に走る紀和山脈が陣ヶ峰(1106メートル)から護摩壇山(ごまだんざん)(1372メートル)、安堵(あんど)山(1184メートル)を経て奈良県との境界をなす果無(はてなし)山脈に続く。さらに紀和山脈から分かれて、北から龍門(りゅうもん)山地、長峰(ながみね)山脈、白馬(しらま)山脈、虎ヶ峰(とらがみね)山脈が西走し、その南には大塔(おおとう)山塊が半島南部を形成する。したがってこの間を流れる有田川、日高川、富田(とんだ)川などいずれも紀の川に並行して西流し、日置(ひき)川は南西に、古座(こざ)川、熊野川は南流する。紀伊山地には高野山(こうやさん)のような前輪廻(ぜんりんね)の遺物と考えられる山頂平坦(へいたん)面があるが、全般に回春による壮年期の山容を示し、河川は先行性の曲流をなし、環流丘陵や河岸段丘が多く、瀞(どろ)峡や古座峡などの峡谷をつくり、紀の川平野を除けば流域平野も盆地もないに等しい。隆起と沈降を繰り返す山地が海に迫る海岸は複雑で、日ノ御埼(ひのみさき)以北にリアス海岸を、以南に海岸段丘を発達させ、潮岬や宇久井(うぐい)に陸繋島(りくけいとう)をつくる。海岸線の延長は600キロメートルに及ぶ。

 和歌山県の自然公園は、熊野川の支流北山川の峡谷で瀞八丁として特別名勝・天然記念物に指定されている瀞峡、七里御浜(しちりみはま)・橋杭岩・潮岬などを含む熊野灘沿岸、熊野三山などの地域が吉野熊野国立公園に、高野山と和歌山県の最高峰護摩壇山などが高野龍神国定公園に、葛城(かつらぎ)山などが金剛生駒紀泉(こんごういこまきせん)国定公園に、新和歌浦(しんわかのうら)、友ヶ島が瀬戸内海国立公園に指定されている。県立自然公園には、煙樹(えんじゅ)海岸、生石(おいし)高原、西有田、白崎(しらさき)海岸、大塔日置川、高野山町石道玉川峡、龍門山、城ヶ森鉾尖(じょうがもりほこだい)、果無山脈、白見山和田川峡(しらみさんわだがわきょう)、古座川の13がある。

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気候

全般に太平洋型で、原始植生は照葉樹林であるが、紀北と紀南、山地と海岸で地域差がある。紀北は瀬戸内型に近く寡雨で、和歌山市の年降水量は約1317ミリメートルであるが、紀南の新宮では約3127ミリメートルと南海型を示す。気温は紀北山地の田辺(たなべ)市龍神(りゅうじん)村で年平均13.5℃、紀南海岸の潮岬は17.2℃である(以上、1981~2010年の平均)。夏にはよく台風の通路となる。

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歴史

先史・古代

先史遺跡は紀の川流域から海岸地帯に分布し、現在の人口分布に符合する。旧石器遺跡は和歌山市山東大池(さんどうおおいけ)、有田川町藤並(ふじなみ)、御坊(ごぼう)市壁川崎(かべこざき)など段丘や台地など十数か所から発見されている。縄文遺跡は田辺市高山寺(こうざんじ)、和歌山市の鳴神(なるかみ)、禰宜(ねぎ)などの貝塚、また有田市地ノ島、広川(ひろがわ)町鷹島(たかしま)など瀬戸内系の土器の出土する遺跡も多い。弥生(やよい)遺跡には和歌市の太田黒田(おおだくろだ)など自然堤上の集落遺跡も現れ、田辺や南部の海岸では製塩土器、串本(くしもと)町笠島(かさしま)遺跡では漁具が出土している。銅鐸(どうたく)も41個出土し全国第4位である(2012)。古墳時代では、4世紀の花山古墳群(和歌山市)、下里古墳(那智勝浦町)に始まり、和歌山市大谷古墳、みなべ町城山(しろやま)古墳など、沖積平野の生産力が増し、紀氏など豪族の出現によると思われる前方後円墳が現れる。和歌山市の岩橋千塚古墳群(いわせせんづかこふんぐん)(特別史跡)は700基に及ぶ大古墳群で、その形式や出土品からは大陸文化の影響や大和(やまと)王朝との関係をうかがわせる。

 古くは、和歌山県の北部を木国(きのくに)、南部を熊野国(くまののくに)と称したが、大化改新(646)後、熊野国は牟婁(むろ)郡として紀伊国に含まれる。しかしいまも地域名として熊野の地名は残っている。大和王朝の下、紀の川北岸に南海道が通じ、萩原(はぎわら)、名草(なぐさ)、賀太(かだ)の駅が置かれ、これに沿って国府(和歌山市府中)や国分寺(紀の川市東国分)、国分尼寺(岩出(いわで)市)が建てられた。紀の川流域をはじめとして条里制も敷かれた。その後、畿内(きない)の影響の強い紀北地方を中心に中央の貴族や寺社の荘園(しょうえん)に分割されていった。

 紀南地方は古くから熊野三山(本宮、新宮、那智山(なちさん))の支配する領域であった。熊野三山は修験道(しゅげんどう)の聖地であり、御師(おし)や先達の活動もあって、法皇、上皇、貴族をはじめ多くの参詣(さんけい)者を集め、「蟻(あり)の熊野詣(もう)で」といわれるほどになった。紀北では高野山に816年(弘仁7)空海が真言(しんごん)道場金剛峯寺(こんごうぶじ)を開き、1288年(正応1)に分派した根来寺(ねごろじ)とともに、しだいに寺領を拡大した。

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中世

1185年(文治1)鎌倉幕府が成立し、諸国に守護、地頭(じとう)が配置された。紀伊国、和泉国では承久(じょうきゅう)の乱(1221)後、北条氏、畠山(はたけやま)氏らの守護が興亡を繰り返した。地武士団もしだいに成長し、そのなかから隅田庄(すだのしょう)(橋本市)の隅田党、雑賀(さいか)庄(和歌山市)の雑賀党、湯浅庄(湯浅町)の湯浅党や、熊野水軍を率い熊野三山と提携した太地(たいち)、新宮などの諸将が台頭し、南北朝時代から戦国時代にかけて勢力を張ったが、1585年(天正13)豊臣(とよとみ)秀吉の根来寺焼打ち、太田城(和歌山市)水攻めをはじめとする紀州征伐によって壊滅した。このとき秀吉が岡山(和歌山市)に築いた和歌山城が和歌山の地名の起源となった。

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近世

関ヶ原の戦い後、和歌山城に浅野氏が入ったが、1619年(元和5)家康の十男徳川頼宣(よりのぶ)が駿河(するが)から入国、城下を整備して紀州藩政の基礎を築いた。紀伊藩は親藩55万5000石であるが、紀伊国は37万石余で、高野山領2万1000石は含まず、伊勢(いせ)国の一部17万石余と大和国の一部が加わる。領内では、家老の安藤氏を3万8000石で田辺に、水野氏を3万5000石で新宮に配して支藩とした。また土豪を地士(じし)として取り立て、荘村を大庄屋(おおじょうや)の下に組として再編した。熊野、伊勢両街道を官道として伝馬所(てんまじょ)を配置し、藩の仕入方を各地に置き、専売制による商品生産を進めた。湯浅醤油(しょうゆ)はその代表的産品で、しょうゆの商品生産としてはもっとも早く、廻船(かいせん)によって江戸、大坂に送られ、のちに千葉県銚子(ちょうし)にも進出した。その他の特産品には黒江漆器、粉河酢(こかわす)、備長炭(びんちょうたん)、紋羽織(もんばおり)、高野紙、有田ミカンなどがある。紀の川流域では5代藩主吉宗(よしむね)のとき、大畑才蔵に命じ小田井などの灌漑(かんがい)用水を開き、また野上谷に溜池(ためいけ)の亀(かめ)池をつくるなどして耕地の拡大を促した。これは紀州流土木といわれる技術開発の基になった。貢米や特産品の輸送は廻船の港を沿岸に繁栄させた。一方、天災などを契機に困窮農民によるこぶち騒動(1823)など百姓一揆(いっき)も頻発した。

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近・現代

大政奉還(1867)後、支藩的存在であった田辺、新宮は藩として独立。本藩は和歌山藩となり、翌1869年(明治2)版籍奉還、1871年7月廃藩置県により和歌山、田辺、新宮の3県が成立したが、同年11月和歌山県に統一された。同時に、旧紀州領の伊勢8郡は度会(わたらい)、安濃津(あのつ)両県(のち三重県に統合)に移管した。旧高野寺領を五条県(1869年堺(さかい)県、翌年五条県に入る)から和歌山県に編入、また牟婁郡のうち熊野川左岸を度会県に移管した。熊野川右岸に位置する北山村が県の飛び地として残ったのはこのときである。ここに現在の和歌山県の県域が確定した。人口55万6919、戸数12万4682であった。1873年和歌山城は廃城となり、天守閣以外の建物は多く撤去されて、知事管理となり、1901年(明治34)和歌山公園として公開された。1872年全県は7大区61小区になったが、1878年布告の郡区町村編制法によって1区8郡437町1144村58浦となり、さらに1889年市町村制施行で1市2町228村となった。

 明治維新後、仕入方や藩内産業保護のための津留(つどめ)制度や座株制度などが廃止されたため、粗製濫造の風が広がり、市場の信用を失い、留山・留木も廃されて山林も乱伐され、県内は一時混乱し、産業経済の沈滞をきたした。しかしこの間、紀伊藩の軍服にも用いられた紋羽織とよばれる綿織物から考案された綿ネルや、藩政改革期の軍靴製造に始まる皮革産業などが伸展し、日清(にっしん)・日露戦争を経て、紡績、染色などを中心とする近代工場も多くなり、第一次世界大戦後には県内生産年間総額2億5000万円に達し、そのうち工業生産額は63%を占めるまでになった。さらに第二次世界大戦直前には、和歌山市を中心に住友金属はじめ精油、化学の工場が立地した。1945年(昭和20)の空襲で、和歌山市、下津(しもつ)町(2005年海南市に合併)などが戦災を被ったが、戦後は阪神工業地帯の南縁としての臨海工業地帯を形成して高度経済成長期を迎えた。しかし明治以降の日本の交通体系の変革、国内市場の中心地からの隔離に加え、親藩の権威の喪失などによって、中心地域との発展の格差が広がってきた。産業構造の変換期を迎え、素材型産業からの脱皮が遅れ低迷の状態にある。1994年(平成6)には、大阪湾泉州沖に関西国際空港が開港し、県北部和歌浦湾には、アミューズメント施設、ヨットハーバー、宿泊施設などを備えた人工島「和歌山マリーナシティ」が開設された。このほかに紀南を中心とする観光リゾート開発が進んでいる。

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産業

和歌山県の県内総生産額(2002)は3兆3458億円で実質経済成長率はプラス0.6%である。有業者数(2002)は51万2000人である。有業者別人口や産業別従業者数から本県産業の特色をみると、第三次産業が県内総生産の67.3%を占めるが、これはとくにサービス業が卸・小売業に迫るほど高率なためで、和歌山県が観光産業に重きを置いていることがわかり、従業員数でも17.2%を占め突出している。第二次産業の総生産は1973年ごろは全体の43%を超えていたが、現在は34.3%に低下している。これは製造業の不振によるものであるが、それでもなお製造業の総生産は産業諸部門のなかではもっとも高い。第一次産業の総生産は第二次産業の約10分の1にすぎないが、就業者数は全体の11%を占め、その点でやはり本県では主要な産業となっている。

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農業

耕地面積は県総面積の約7.7%、3万6400ヘクタール(2003)で、紀の川流域に40%余が集まる。水田率も紀の川流域で高く、米の収穫量も総収穫量3万7100トンの53%を占め県内の穀倉地帯となっている。和歌山県の農業は、耕地面積の60%(2万2300ヘクタール)を占める果樹園芸に特色がある。とくに藩政時代から有田ミカンの特産地であり、江戸送りが盛んに行われた有田川流域のミカンの収穫量は全県の約半分を占める。紀の川流域にもハッサクなどの栽培が広がり、和歌山県の柑橘(かんきつ)類はミカンが18万トンで全国第2位、ハッサクが3万5000トンで全国第1位である。柑橘以外の果樹栽培も盛んで、紀の川流域の紀の川市桃山町のモモ、九度山(くどやま)町、かつらぎ町を中心とするカキ、また南部(みなべ)川、会津川流域のウメなどがある。とくにウメ栽培は花期の観梅も知られ、また梅干しなどの加工は近年台湾産ウメの輸入加工も加わり、全国総生産の75%を占めている。

 畑作では紀の川下流部のタマネギダイコン、花卉(かき)、御坊(ごぼう)市付近のエンドウ、スイカなどや串本(くしもと)町付近の花卉などの施設園芸が特筆される。ほかに日置(ひき)川中流部や那智(なち)勝浦町色川(いろかわ)などの茶の栽培加工も知られている。県内におけるおもな農産物の生産額の構成(2003)をみると、ミカン18.6%、ウメ17.7%、米9.5%、カキ6.5%、モモ4.7%、ハッサク3.1%、サヤエンドウ2.2%などのほか、梅干し2.1%、ブロイラー2.0%、鶏卵1.3%となっている。有田・日高地方ではかつて除虫菊栽培が行われたが、いまは衰え、輸入原料による蚊取り線香工場だけが残っている。なお、大規模灌漑(かんがい)排水事業として、紀の川右岸の紀の川用水(約35キロメートル)および、南部川流域の南紀用水(約28キロメートル)の工事が完成している。

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林業

木の国といわれた和歌山県の林野面積は36万ヘクタールで県土の77%に及び、そのうち民有林が95%と高率であることが特徴である。藩政期の留山・留木の制による天然林もしだいに更新され人工林が62%を占めている。近年素材生産量が減り、1980年の46万立方メートルをピークに、1995年の26万立方メートル、2003年は17万立方メートルと減少している。県内製材消費量は50万立方メートルを超えるため、その約63%を輸入外材に依存している。特産物の備長炭(びんちょうたん)の生産は減少傾向にあったが、1990年代中ごろより備長炭の効用(浄化・殺菌・消臭・除湿等)が注目されるようになり、また燃料としても高級料理店等で見直され、活気を取戻している。

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水産業

600キロメートルの海岸線を有する和歌山県は、かつて地引網や一本釣りを全国に伝えた漁業の先進地であった。いまも漁港95を数えるが、漁業近代化に遅れて零細化をたどり、アメリカ村に代表される海外漁業出稼ぎ者を多出させた。太地(たいじ)港などを中心とする近世以来の捕鯨やアラフラ海などへの採貝出漁も、200海里漁業水域宣言や捕鯨禁止の趨勢(すうせい)によって衰退した。2003年の漁業生産量は4.6万トン(1985年は7.8万トン)、うち勝浦港などを中心とする遠洋漁業4.0%(同14%)、沖合漁業43.8%(同40%)、沿岸漁業36.8%(同33%)、海面養殖11.9%(同8.5%)、内水面漁業3.5%(同4.5%)である。海面養殖はハマチなど、内水面ではアユ養殖が主である。

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工鉱業

2003年(平成15)県内の製造業の全事業所数は4587、従業者数は5万8299。従業者3人以下の事業所が全体の42%で、そのうち食品、繊維、木材などの軽工業部門の事業所が69%を占める。また、事業所の地域分布をみると、2002年(4人以上の事業所)では和歌山・海南両市周辺に45%が集中、紀の川上流部に20%、有田・御坊両市周辺に13%、田辺・新宮両市に9%で、従業者数もほぼこれに準ずる。製造品出荷額等2兆0500億円のうち和歌山・海南両市周辺に55%、有田・御坊両市周辺に27%で両地域で82%を占める。和歌山県の重化学工場の立地は1939年(昭和14)下津町(現、海南市)に丸善石油(現、コスモ石油)が精油工場を建設したのが始まりで、その後第二次世界大戦の前後にかけて和歌山・海南両市域に住友金属(現、新日鉄住金)、花王、三菱(みつびし)電機、関西電力、有田市周辺に東燃(現、ENEOS)、御坊市周辺に関西電力火力発電所、三井造船などが進出している。御坊市周辺を除きいずれも和歌山下津港の臨港工場である。一方、電気、精密機械などの先端産業は県の誘致運動にもかかわらず立地する工場は少ない。

 軽工業には、紀の川流域で行われた藩政期からの綿作とワタを原料とする綿織物の紋羽織に起源するメリヤス製造、捺染(なっせん)工業のほか、木材加工などの伝統工業が中心で、全国市場に高い占有率を示すものもある。和歌山市のニット製品や捺染、藩政改革期の軍靴製造に起源する皮革加工、海南市のシュロ加工の伝統を継ぐ和雑貨(家庭用品)および黒江塗を継承する漆器、貝ボタン製造からかわった田辺市のプラスチックボタンなどがそれである。また木材関係では和歌山市、田辺市の製材、和歌山市の家具・建具、新宮市の製紙がある。高野山での高野豆腐、高野紙はほとんど衰退したが、橋本市に釣り竿(ざお)、シール織の伝統工芸が引き継がれている。ほかに和歌山市のかまぼこ、田辺市のなんば焼きなどの水産加工が知られている。また湯浅町のしょうゆ、有田市の蚊取り線香、みなべ町の梅干しなどの特産がある。

 和歌山県は地下資源が乏しく、紀北の飯盛(いえもり)、紀南の妙法(みょうほう)両銅山も閉山、熊野川右岸の炭坑、由良(ゆら)町白崎のセメント用石灰岩採取もすでに廃止された。

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商業

県内の全市は紀の川流域と海岸地帯に位置し、県内の商圏も日用品は9市それぞれにあるが、買回品や卸売りについては和歌山市が紀中まで広がる。しかし和歌山市が県の北西隅にあるため、その商圏は県内全域にはわたらず、紀南は田辺市と新宮市に二分される。また北部は隣接する大阪府の影響が強く、大阪のベッドタウン化した橋本市など紀の川流域はいうまでもなく、紀中から紀南にもその商圏は及んでいる。なお2004年時点で県内にある百貨店は1店のみで、そのほか、総合スーパーが13店、専門スーパーが305店、コンビニエンスストアが220店ある。

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交通

県内の道路交通はかつての社寺参詣路が主要幹線道路となったのが特色で、伊勢(いせ)街道(国道24号)、熊野街道(42号、26号、168号、311号)、高野街道(371号)などがそれである。大和から真土(まつち)峠を越え紀の川北岸に沿って加太(かだ)の港(和歌山市)に至る古代の南海道も、のちに伊勢街道(大和街道)となり、また淡島(あわしま)神社や根来寺、粉河(こかわ)寺への参詣路になった。藩政期には和歌山城下を中心にこれらが再編成され、伊勢、熊野両街道には駅制が敷かれ、また龍神温泉への龍神街道も通じた。河川は城下を除いて架橋が許されず、すべて舟の渡しによった。最初の架橋は1874年(明治7)紀の川に架けられた北島橋である。明治以後の道路整備は遅れ、熊野大辺路(おおへち)が国道として舗装を完成したのは1969年(昭和44)である。これは紀南の観光開発に伴うもので、かつての参詣路が観光路にかわったといえる。1980年には高野龍神スカイライン(現、国道371号)が開通した。阪和自動車道は大阪府阪南町(現、阪南市)―海南間が1974年に開通、1996年(平成8)に御坊、2003年みなべまで達した。

 鉄道は1898年(明治31)和歌山線、南海電鉄本線の開通に始まる。主要道路に沿う線が多く、JR和歌山線は紀の川沿いを国道24号と並走し、大阪市と和歌山市を結ぶ阪和線は国道42号に沿う紀勢本線に連なっている。紀伊山地は鉄道の空白地帯で、当初高野山まで通じる予定だった野上電鉄の計画も中断し1994年(平成6)廃線となった。ほかに南海電鉄の高野線、貴志川線(2005年から、わかやま電鉄貴志川線)、加太線、紀州鉄道(御坊臨港線)などがある。1915年(大正4)開通の有田鉄道は2003年(平成15)廃止。紀伊半島をほぼ一周する紀勢本線は1924年(大正13)に開設、1940年に県内を全通したが、半島を全通したのはようやく1959年であった。

 海上交通は早くから開け、江戸時代は江戸、大坂間の廻船の発達とともに、沿岸の諸港が栄えた。明治以後、大阪商船などの紀州航路にかわったが、紀勢本線の南下に伴い1930年代に廃止された。この間、古代から紀水門(きのみなと)として知られた紀の川河口港は1945年に改修されて和歌山港となり、1965年には石油港湾として発達した下津港とともに特定重要港湾「和歌山下津港」に指定された(2011年、港湾法改正により、国際拠点港湾に変更)。和歌山港からは徳島へ定期船が発着する。河川交通は衰えたが、現在熊野川に瀞峡観光のジェット船が就航している。1968年には南紀白浜空港が開港、1996年にジェット化、現在東京へ定期便がある。

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社会・文化

明治末ごろに日本は8地方に区分され、和歌山県は近畿地方に属したが、それまで紀伊国は畿内(きない)に含まれず、南海道に属した。偶然ながら自然の構造にもそれは一致する。したがって畿内に隣接してその影響を受けながらも独自の文化を育ててきたことは、先史遺跡の特徴にも表れている。海上交通を通じて全国各地と交流し、広い山地は外界と隔絶するかにみえるが、高野山や熊野三山の聖域が形成され、全国からの参詣者の往来を通じていち早く天下の情報をとらえてきた。藩政期は徳川親藩として、一方では畿内と交流を続けながら江戸との接触を深め、いまなお近畿文化圏にありながら東京への依存と親近感を強くもっている。親藩であったという自尊心は僻地(へきち)意識と重複して複雑な屈折を示している。

 和歌山県はほぼ紀伊一国の領域を継承したことから、共通の県民意識に支えられているが、なお地域的特色もあり、一般に紀北、紀中、紀南に区分される。一方、南紀という呼び名は、紀伊藩270年の記録『南紀徳川史』の名称にも用いられた南海道紀伊国の略称であるが、南国のイメージをかき立て、また旧国名への郷愁を呼び起こすものとして好んで用いられるが、それはまた近代的開発から取り残された異郷の姿も想起させる。それは熊野の名称への強い愛着にも通ずるものがある。確かに近代的開発の過程で生じた阪神圏からの距離による開発格差が意識され、北高南低のことばも生じていることも和歌山県の文化的特色といえよう。

 和歌山県で特筆さるべきものは高野山と熊野三山の存在である。高野山は紀北の山中にあって山岳仏教のおもかげをとどめ、全国的な真言(しんごん)密教の総本山としていまも多くの参詣者を集めている。明治まで維持された旧寺領内の村々では、いまだに「骨上(こつのぼ)せ」という納骨のための登山が続けられている。しかし旧寺領以外では真言宗は比較的少なく、中世末に一時本願寺が和歌山に置かれたこともあって、浄土真宗が紀北から紀中に多く、紀南では禅宗の比率が高い。熊野三山は近世以降、宗教的影響は薄れたが、旧神領の熊野地方に火祭や船祭などの旧慣を残している。山地率の高い和歌山県では、「山村振興法」の対象となる町村で県面積の約60%を占め、「過疎地域持続的発展特別措置法」が適用される町村も23市町村あり(2021)、両者が重複する場合が多く、これら地域の人口密度は1平方キロメートル当り1人に満たない。その人口支持力の乏しさが海外移民多出県の一つとなり、海外移住からの帰国者がアメリカの慣習を持ち帰り、アメリカ村といわれる美浜町三尾(みお)地区などを生んだ。三尾地区と同様な所は東牟婁(ひがしむろ)郡などにもみられる。

 和歌山県の文化的伝統をみると、紀伊藩の伊勢領松坂は本居宣長(もとおりのりなが)を生んだ国学の盛んな所。和歌山城下もその影響により学問が盛んであった。宣長の家督を継いだ本居大平(おおひら)は紀伊藩に出仕し、1000名余の門弟を指導した。大平は門弟の加納諸平(もろひら)や儒学者仁井田好古(にいだこうこ)(1770―1848)と『紀伊国名所図会』や『紀伊続風土記(ふどき)』の編纂(へんさん)にあたった。また世界で最初に全身麻酔による外科手術に成功した華岡青洲(はなおかせいしゅう)の西野山村(紀の川市)の医塾には全国から学徒が集まった。

 紀伊藩の藩校は1713年(正徳3)講釈所として開かれ、のち講堂と改称、さらに1791年(寛政3)学習館に改編し藩士の子弟の教育にあたった。一方、当時領内の寺子屋の数は3000を数えたといい、教育への熱意が読み取れる。2012年(平成24)時点で、県内には国立和歌山大学、和歌山県立医科大学、和歌山県農業大学、私立高野山大学、近畿大学生物理工学部のほか私立の短大1校と高専1校を数えるのみで、高等教育機関は隣接する京阪神に依存し、有為の人材を県外に逸している。

 文化施設としては和歌山市に県民文化会館、市民会館、県立および市立図書館、県立近代美術館、県立博物館、和歌山マリーナシティなどがあるが、和歌山市に偏在の趣(おもむき)がある。ほかには海南市の県立自然博物館、田辺市の紀南文化会館、図書館、歴史民俗資料館などがある。特色あるものとしては串本町の海域公園施設、太地町のくじらの博物館などである。放送施設としては和歌山市にNHK支局のほかテレビ和歌山、和歌山放送(ラジオ)があるが、代表的な地方新聞はない。

[小池洋一]

文化財

国指定特別史跡に岩橋(いわせ)千塚古墳群があるほか、紀伊国分寺跡、和歌山城、徳川家墓所などが国史跡に指定されている。県内に熊野三山、高野山があるため、国指定重要文化財の数は多い。高野山には総本山金剛峯寺の不動堂と金剛三昧(さんまい)院多宝塔(ともに鎌倉時代)の国宝建造物のほか、仏涅槃(ねはん)図、八大童子立像、弘法大師(こうぼうだいし)筆「聾瞽指帰(ろうこしいき)」(以上国宝)などの寺宝を多く蔵する。熊野三山では新宮(熊野速玉大社)の古神宝類、神像4体などが国宝に指定されている。このほか国宝建造物に海南市長保寺の本堂、多宝塔、大門、善福寺釈迦(しゃか)堂、岩出市根来寺多宝塔がある。また紀の川市粉河寺の『粉河寺縁起』、鞆淵(ともぶち)八幡神社の神輿、九度山町慈尊院の弥勒(みろく)仏坐像(ざぞう)、かつらぎ町丹生都比売(にうつひめ)神社の蛭巻太刀拵(ひるまきたちこしらえ)などの国宝がある。民家建築では和歌山市に大庄屋の旧中筋家住宅6棟、紀伊風土記の丘に旧柳川家住宅2棟などがあり国の重要文化財に指定されている。なお、2004年には、高野山や熊野三山などが「紀伊山地の霊場と参詣(さんけい)道」として世界遺産(文化遺産)に登録された。

[小池洋一]

郷土芸能

熊野三山に関係の深い火祭と舟祭が出色である。2月6日・7日の新宮市速玉大社・神倉(かんのくら)神社の速玉祭・御灯祭り、7月14日の那智大社の火祭、7月下旬の古座(こざ)川河内(こうち)祭りの御舟行事(国指定無形民俗文化財)、10月16日の速玉大社の舟祭はその代表的なものである。民俗芸能のうち那智大社の田楽(でんがく)、かつらぎ町花園、有田川町杉野原の御田舞(おんたのまい)は国の重要無形民俗文化財、広川町の広八幡(ひろはちまん)神社の田楽、御坊市の戯瓢(けほん)踊などは選択無形民俗文化財である。

 年中行事は、1月に海南市藤代神社の獅子舞(ししまい)、和歌山市伊太祁曽(いたきそ)神社の卯杖(うづえ)祭、2月の和歌山市淡島神社の針供養、3月の淡島神社の雛(ひな)流し、4月の日高川(ひだかがわ)町道成寺(どうじょうじ)鐘供養、5月の和歌山市和歌祭、九度山町の真田(さなだ)祭、7月の田辺祭、粉河祭、8月の和歌山市の団七踊、海南市下津町塩津のいな踊、由良町興国寺の灯籠(とうろう)焼、9月の新宮市三輪崎の鯨踊、10月の日高川町丹生神社の笑い祭、由良町衣奈(いな)八幡神社の童子ずもう、串本(くしもと)町の獅子舞など多彩である。

[小池洋一]

伝説

熊野三山は天皇や貴族をはじめとして庶民に至るまで熱狂的な信仰を集めた。田辺(たなべ)市本宮町の湯の峰温泉は本宮参拝者の湯垢離(ゆごり)場として知られた。業病にかかり足なえになった「小栗判官(おぐりはんがん)」が湯の峰の壺湯(つぼゆ)に入浴して快癒したという。付近には力石、車塚など伝説ゆかりの遺跡がある。小栗判官が通ったと伝える熊野街道を、いまも小栗街道ともよんでいる。この伝説は説経節『小栗判官』となり、熊野聖(ひじり)らによって諸国に流布された。さらに浄瑠璃義太夫(じょうるりぎだゆう)節の『小栗判官車街道』や、歌舞伎(かぶき)の『小栗十二段』が生まれた。熊野路は、死者の路ともいわれた。那智勝浦町の阿弥陀寺(あみだじ)には「一つ鐘」があり、死者が同寺の鐘をつきにくると信じられている。阿弥陀寺の奥之院に樒(しきみ)山がある。シキミの枝を折り路傍に挿して仏に祈ると、その枝に根が生えるという。熊野灘(なだ)を前にした那智川の河口近くにある補陀洛山寺(ふだらくさんじ)には「補陀落渡海」の観音(かんのん)信仰が伝えられる。補陀落はインドの南海岸にある山で、観音の浄土といわれ、この地を目ざして多くの僧が補陀洛山寺から船出をした。沖には黒潮が流れ、冬は北西風が強く吹く。その風に追われて黒潮にのり、大洋を漂流するため、渡海の時期は冬に定められていた。大洋を漂流すれば死出の旅となること必定である。渡海の僧たちは「渡海上人(しょうにん)」とよばれた。補陀洛山寺の裏山に渡海上人の墓がある。『平家物語』に「平維盛(これもり)」も浜之宮王子から補陀落渡海したことが記される。渡海したはずの維盛には生存伝説もある。日高川水源地に近い田辺市龍神村(りゅうじんむら)地区に維盛屋敷跡があり、愛妾(あいしょう)お万とともに隠棲(いんせい)し、同地で没したと伝えている。

 日高川の下流に「安珍清姫(あんちんきよひめ)」の伝説で知られる道成寺(どうじょうじ)(日高川町)がある。この伝説は寺宝の絵巻『道成寺縁起(どうじょうじえんぎ)』に由来し、浄瑠璃『道成寺現在蛇鱗(げんざいうろこ)』(1742)に安珍清姫の名が初見する。道成寺付近には清姫の蛇塚、安珍塚、鐘巻(かねまき)の跡などがある。高野山には「石童丸」の伝説がある。この伝説は高野聖によって諸国に流布し、のちに説経浄瑠璃『かるかや』が生まれた。石童丸の父藤原重氏(しげうじ)は出家して苅萱(かるかや)道心となったが、石童丸が高野山へ訪ねてきても名のらずに帰した。のち石童丸は苅萱の弟子となり道念坊と称したという。高野山の蓮華(れんげ)谷大円院には「滝口入道と横笛」の伝説がある。北面の武士斎藤時頼(ときより)は高野山に入り滝口入道と名のるが、建礼門院の雑司横笛はウグイスとなって入道に会いにきたという。境内には鶯(うぐいす)梅、鶯の井戸がある。

 串本町の海岸には、沖の大島に向かって大小30余りの柱岩が一列に並び橋杭岩とよばれる。弘法(こうぼう)大師が住民のために、一夜のうちに大島まで橋杭を立てることを誓願するが、海神はこれを嫌って、夜明けには間があるのにニワトリの鳴き声のまねをした。このため工事が妨げられ橋杭は途中で切れたままになったという。大師伝説は田辺市本宮町大瀬にもある。大瀬にたどり着いた大師は、貧しい老婆から一杯のそば粉を恵まれ、胃の腑(ふ)の飢えをいやした。それからこの地では種を播(ま)かずともソバが生えてきたという。これを大師の「播かずそば」とよんでいる。

[武田静澄]

『和歌山県編『和歌山県誌』全3巻(復刻・1970・名著出版)』『安藤精一著『和歌山県の歴史』(1970・山川出版社)』『和歌山県史編さん委員会編『和歌山県史』全24巻(1975~1994・和歌山県)』『和歌山県農業試験場編・刊『和歌山県農業80年の歩み』(1982)』『『日本歴史地名大系31 和歌山県の地名』(1983・平凡社)』『『角川日本地名大辞典30 和歌山県』(1985・角川書店)』『南海道総合研究所編・刊『和歌山県の地場産業』(1985)』『小池洋一編『和歌山県の地理』(1986・地人書房)』『安藤精一編『図説 和歌山県の歴史』(1988・河出書房新社)』


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