呉秀三(読み)クレシュウゾウ

デジタル大辞泉 「呉秀三」の意味・読み・例文・類語

くれ‐しゅうぞう〔‐シウザウ〕【呉秀三】

[1865~1932]精神医学者・医史学者。江戸の生まれ。巣鴨病院(のちの松沢病院)院長。ウィーン留学し、日本にクレペリンの説を移入。精神障害患者の保護、知的障害者の教育の先駆者。医学史研究シーボルト研究が特に著名。

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精選版 日本国語大辞典 「呉秀三」の意味・読み・例文・類語

くれ‐しゅうぞう【呉秀三】

精神病学者。東京出身。帝国大学医科大学卒。東京帝国大学教授、東京府立巣鴨病院(のちの松沢病院)長となり、日本における精神病学の確立努力。シーボルトの研究でも知られる。慶応元~昭和七年(一八六五‐一九三二

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「呉秀三」の意味・わかりやすい解説

呉秀三
くれしゅうぞう
(1865―1932)

精神医学者、医史学者、東京帝国大学教授。箕作阮甫(みつくりげんぽ)を外祖父に、広島藩医呉黄石(こうせき)(1811―1879)を父に、元治(げんじ)2年2月17日(新暦の4月14日)江戸青山に生まれる。兄は統計学者呉文聡(あやとし)。1890年(明治23)帝国大学医科大学を卒業、精神病学教室に入る。1897~1901年とヨーロッパに留学して、脳研究法と新しい精神医学体系とを導入した。帰国して帝国大学教授および東京府巣鴨(すがも)病院長に任ぜられた。1902年(明治35)には日本神経学会(現、日本精神神経学会)を創立し、精神病者慈善救治会を組織した。巣鴨病院の院内制度を大改革し、1919年には病院を府下松沢村(現、世田谷区上北沢)に移転させた。樫田五郎(かしだごろう)(1883―1938)との共著『精神病者私宅監置ノ実況及ビ其(その)統計的観察』(1918)は、座敷牢(ろう)を公認している精神病者監護法および国家・社会の無策を厳しく批判した。1925年(大正14)定年により退官、退職。師榊俶(さかきはじめ)(1857―1897)早逝のため、日本の精神医学の建立者とされる。

 若年より富士川游(ゆう)とともに医史学を研究し、1896年には富士川らと芸備医学会をおこした。1927年(昭和2)創立の日本医史学会理事長となる。代表作は『シーボルト先生 其生涯及功業』(1926)。文章家としても知られ、森林太郎(鴎外(おうがい))らと親交があった。昭和7年3月26日死去。

[岡田靖雄]

『岡田靖雄編『呉秀三著作集』全2巻(1982・思文閣出版)』『精神医療史研究会編『呉秀三先生――その業績』(1974・呉秀三先生業績顕彰会)』『岡田靖雄著『呉秀三 その生涯と業績』(1982・思文閣出版)』


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改訂新版 世界大百科事典 「呉秀三」の意味・わかりやすい解説

呉秀三 (くれしゅうぞう)
生没年:1865-1932(慶応1-昭和7)

日本の近代精神医学の基礎を築いた人。江戸に生まれる。父は呉黄石(浅野藩医),母はせき(洋学者箕作阮甫(みつくりげんぽ)の長女)。1890年に東京大学医科大学卒業。その後,精神病学を榊俶のもとで学び,97年に渡欧し,ウィーン,ハイデルベルク,パリなどに留学した。4年間の留学の後半は,E.クレペリンのもとで学び,その精神病分類の体系を日本に導入した。1901-25年の間,東京帝国大学医科大学教授として精神病学講座を担当し,1903年には三浦謹之助とともに日本神経学会を創立した。また《神経学雑誌》の発刊にも寄与した。呉は帰国後,東京府立巣鴨病院医長を兼任したが,留学中の経験を生かして,呉改革ともいわれる患者の人道的待遇を柱とする無拘束看護を推進し,一方,看護者の教育,精神病院の機構および構造改革,教育治療,作業療法の導入等精神病院医療の近代化と医療内容の充実を図った。また,1902年には精神病者救治会を設立し,精神障害者に対する慈善的事業を組織した。19年,呉は患者1人に100坪の敷地のある理想的な精神病院の建設を願って,巣鴨病院の松沢村への移転を果たした(これが現在の東京都立松沢病院の前身である)。その後,東京帝国大学教授と東京府立松沢病院長を兼任し,近代精神医学と精神医療の発展に寄与した。著書は多数あるが,専門領域の《精神病学集要》(1894,第2版1916),《精神病検診録》(1908),《精神病鑑定例》(1903-09)等はいずれも日本の精神医学教科書の古典とされるものである。晩年には医学史研究にも力をそそぎ,なかでもシーボルト研究は有名である。なお,兄の文聡(1851-1918)は明治・大正期の統計学者であり,またその子の茂一(1897-1977)は西洋古典学者で東大教授,甥の建は内科医で呉内科を主宰した。
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百科事典マイペディア 「呉秀三」の意味・わかりやすい解説

呉秀三【くれしゅうぞう】

医学者。江戸の生れ。父黄石は広島藩医,蘭方医として知られ,母は箕作阮甫の娘。1890年東大卒,精神病学を専攻。ヨーロッパ留学後1901年東大教授兼巣鴨病院(1919年松沢病院と改称)院長となり,日本の精神病学の確立に貢献。また富士川游らとともに日本医史学の基礎を築き,《シーボルト先生其生涯及功業》《華岡青洲先生及其外科》等を著した。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「呉秀三」の解説

呉秀三 くれ-しゅうぞう

1865-1932 明治-昭和時代前期の精神病学者。
元治(げんじ)2年2月17日生まれ。呉黄石(こうせき)の子。明治34年東京帝大教授となり,37年から巣鴨(すがも)(のち松沢)病院長をかねる。日本の精神病学の基礎をきずいた。富士川游(ゆう)とならぶ医学史研究の草分けでもある。昭和7年3月26日死去。68歳。江戸出身。帝国大学卒。著作に「シーボルト先生―其生涯及功業」など。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「呉秀三」の意味・わかりやすい解説

呉秀三
くれしゅうぞう

[生]慶応1(1865).2.17. 江戸
[没]1932.3.26. 東京
精神医学者。父は浅野藩医呉黄石,母は蘭方医箕作阮甫 (みつくりげんぽ) の娘。 1890年,帝国大学医科大学卒業,97年渡欧,1901年帰国して母校の教授,同時に東京府巣鴨病院 (のちの松沢病院) 院長。以来 30年,日本の精神医学の進歩に貢献した。また医史学の造詣が深く,『シーボルト先生』など,この方面の著書も多い。

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世界大百科事典(旧版)内の呉秀三の言及

【狂気】より

…これらの現象は,ヨーロッパの場合と似て,医学や医療の対象ではなく,おおむね加持祈禱の対象だったし,また信仰や宗教の領域のみならず,文芸や芸能の領域へも広く浸透していった。明治期になって近代精神医学が日本でも発展するとともに,〈狂〉の字は呉秀三の提唱により精神医学の用語から抹消されたが,〈狂気〉のエネルギーは人間の存在するかぎり,社会の各分野で生きつづけると思われる。精神病【宮本 忠雄】
[文化と狂気]
 狂気は文化的脈絡のなかで理解されなければならず,これは精神医学の分野においては,大きく二つの立場に分けられる。…

【精神衛生】より

…世界保健機構の精神衛生部でも種々の国際的活動を行っている。 日本では11世紀末から京都の岩倉村で患者の共同生活が行われていたが(岩倉保養所),近代以降の活動としては1902年呉秀三が精神病者救治会をつくったのをはじめとして,26年には日本精神衛生会,52年には日本精神衛生連盟が結成された。国の施策では,1900年精神病者監護法により監護義務者を定め,19年精神病院法により精神病院と入院の規定をした。…

※「呉秀三」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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