向津具村(読み)むかつくむら

日本歴史地名大系 「向津具村」の解説

向津具村
むかつくむら

[現在地名]油谷町大字向津具上むかつくかみ・大字向津具下むかつくしも

油谷湾の北、向津具半島とそれに続く油谷島を村域とする。東は後畑うしろばた村、南側の対岸伊上いがみ村。先大津宰判に所属する。

和名抄」に記される向国むかつくに郷の地とされ、平安時代後期には向津奥むかつく庄とよばれる妙法みようほう院管理の新日吉いまひえ(現京都市東山区)領の荘園となった(「後白河院庁下文」妙法院文書)

向津具の地名は向国(和名抄ほか)、向津奥(妙法院文書ほか)向徳むかとく(日置八幡宮文書)向津むこうつ(「閥閲録」所収大願寺文書など)ともいった。

この地にも歌人柿本人麿が来住したという伝説があり、その折に

<資料は省略されています>

と詠んだとされる。それをうけて連歌師宗祇は

<資料は省略されています>

と詠んだという(「閥閲録」所収大願寺文書)

明治三年(一八七〇)厚狭あさ郡のこおり(現山陽町)へ移転した正福しようふく寺には十二神将があったが、その台座銘に「応永十四丁亥正月十三日刻之、霊像于長州向津奥正福寺者也」とある。しかし近世初期にもなお向津奥庄という呼び方もされたらしい(「閥閲録」所収永禄一〇年四月一九日付小幡七左衛門家文書)

慶長一五年(一六一〇)検地帳では向津具とあり、総石高二千三三一石余、うち田方が一五一町余で一千六九一石余、畠方が一一二町余で三四九石余、百姓屋敷一六六、浦屋敷三六、浦浮役一六一石余、小物成六石余と記される。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報