向井元升(読み)むかいげんしょう

精選版 日本国語大辞典 「向井元升」の意味・読み・例文・類語

むかい‐げんしょう【向井元升】

江戸初期の儒医肥前国佐賀県)の人。長崎私塾「輔仁堂」で儒学を講じ、また宮中にも伺候した。出島の蘭館医師の説を聞き、「紅毛外科秘要」を著わした。慶長一四~延宝五年(一六〇九‐七七

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「向井元升」の意味・わかりやすい解説

向井元升
むかいげんしょう
(1609―1677)

江戸前期の医家、本草(ほんぞう)家。肥前国(佐賀県)神崎(かんざき)生まれ。幼名玄松。字(あざな)は以順、素柏。号は霊蘭。幼時、父と長崎に移住、天文・本草を学び、長じて漢方を独学奥義を究め、霊蘭(れいらん)堂を開設し、名声はあがった。肥前平田侯からの侍医の招きを固辞。1654年(承応3)、通詞を介して長崎在留の蘭医ステビンより西洋医術の聞き書き『紅毛外科秘要』13巻をまとめた。また自然学概説書『乾坤(けんこん)弁説』を著した。1658年(万治1)京都に上り、朝廷の信任厚く良医の第一人と称され、貝原益軒門人も多数を数える。1671年(寛文11)の著『庖厨備用倭名(ほうちゅうびようわみょう)本草』13巻は加賀藩家老の依頼でまとめた藩主の食膳(しょくぜん)用の参考文献で、動植物食品400種を和名で記し、薬物の起源、名実異同を論述した江戸期最初の本草書といわれる。没後刊行された。

[根本曽代子]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「向井元升」の意味・わかりやすい解説

向井元升
むかいげんしょう

[生]慶長14(1609).2.2. 肥前
[没]延宝5(1677).11.1. 京都
江戸時代前期の医師,儒学者。初め名を玄松,晩年に元升と改めた。字は素柏,以順,号に観水子など。 20歳のときに開業,筑前 (福岡県) の黒田侯,続いて皇族の病気を治療して名声を揚げた。私塾輔仁堂を建て,堂内に孔子の聖廟をつくって,儒学を教えた。門人に貝原益軒がいる。承応3 (1654) 年,明暦3 (57) 年の2回,幕府の命でオランダ人医師に西洋医術を質問し,『紅毛流外科秘要』 (7巻) にまとめて提出した。天文学,本草学にも通じ,『乾坤弁説』『庖廚備用倭名本草』 (13巻) を著わした。後者は江戸時代最初の本草書である。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「向井元升」の解説

向井元升 むかい-げんしょう

1609-1677 江戸時代前期の儒者,医師。
慶長14年2月2日生まれ。向井去来の父。長崎にすみ天文,本草学,医学をまなぶ。長崎に孔子廟(びょう)を創建し,私塾で儒学をおしえた。のち京都で医を開業。西洋天文書を翻訳し批評をくわえた「乾坤(けんこん)弁説」のほか,「庖厨(ほうちゅう)備用倭名本草」などの著作がある。延宝5年11月1日死去。69歳。肥前神埼郡(佐賀県)出身。字(あざな)は素栢。号は観水子,霊蘭。

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百科事典マイペディア 「向井元升」の意味・わかりやすい解説

向井元升【むかいげんしょう】

江戸初期の儒医。元松とも記。肥前の人。号は霊蘭。5歳のとき父と長崎へ出,天文家林吉左衛門に学ぶ。22歳で医を志し独学で儒医の道をきわめ,本草も考究。1658年京に移住。主著《知耻篇(ちちへん)》,《乾坤(けんこん)弁説》(沢野忠庵口述),《庖厨備用大和本草》。元成,去来はその子。

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367日誕生日大事典 「向井元升」の解説

向井元升 (むかいげんしょう)

生年月日:1609年2月2日
江戸時代前期の医師;儒者
1677年没

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