吉雄耕牛(読み)よしおこうぎゅう

精選版 日本国語大辞典 「吉雄耕牛」の意味・読み・例文・類語

よしお‐こうぎゅう【吉雄耕牛】

江戸末期の蘭方医長崎の人。オランダ大通詞蘭学指南をつとめ、西洋医学を学んで、吉雄流外科を起こした。杉田玄白平賀源内らの師で、「解体新書」の序文を記した。著に「因液発備」など。享保九~寛政一二年(一七二四‐一八〇〇

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デジタル大辞泉 「吉雄耕牛」の意味・読み・例文・類語

よしお‐こうぎゅう〔よしをカウギウ〕【吉雄耕牛】

[1724~1800]江戸中期の蘭学者・蘭方医。長崎の人。名は永章。通称、幸左衛門・幸作。耕牛は号。オランダ通詞のかたわら、蘭方医学を学び吉雄流の開祖となる。前野良沢杉田玄白らを指導。「解体新書」の序文を書いたことでも知られる。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「吉雄耕牛」の意味・わかりやすい解説

吉雄耕牛
よしおこうぎゅう
(1724―1800)

江戸中期のオランダ通詞(つうじ)、蘭方(らんぽう)医。長崎の人。名は永章、通称は幸左衛門、また幸作(幸朔)。耕牛は号である。通詞の家に生まれ、早くから家業のオランダ通詞に携わり、1748年(寛延1)大通詞となり、1788年(天明8)までに年番大通詞を8回勤めた。1790年(寛政2)ごろ大通詞を退いてオランダ通詞目付となる。その後、不都合のことがあったとして閉門蟄居(ちっきょ)に処せられたが、1797年に許され、以降、蛮学指南役の任にあった。一方、彼は出島のオランダ商館にきた多くの外国人医師について西洋医学、とくに外科を学び、のちに吉雄流外科といわれる一派をおこした。「吉雄家学之科条」として、紅毛文字・紅毛方言・纏帛(こんはく)法・切脈法・腹診法・服薬法・刺鍼(ししん)法・治創法・療瘍(りょうよう)法・整骨法の10か条を定め、杉田玄白・前野良沢(りょうたく)・平賀源内をはじめ多くの門下生を指導し、蘭学の普及に大きく貢献した。『解体新書』序文は耕牛の筆になる。『紅毛瘍(よう)医鑑』『外療秘伝集』などを著したほか、日本最初の尿診断書『因液発備』を口述、発刊した。

[大鳥蘭三郎]

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改訂新版 世界大百科事典 「吉雄耕牛」の意味・わかりやすい解説

吉雄耕牛 (よしおこうぎゅう)
生没年:1724-1800(享保9-寛政12)

江戸後期のオランダ通詞,蘭方医。名は永章,通称は幸左衛門,のち幸作。耕牛は号。1737年(元文2)稽古通詞となり,42年(寛保2)小通詞,48年(寛延1)大通詞となる。90年(寛政2)までの間,年番を13回,江戸番を11回務めた。一時誤訳事件に連座し5年間蟄居(ちつきよ)したが,97年から1800年まで若い通詞たちのための蛮学指南を命ぜられた。一方,出島のオランダ商館付外科医たちから洋方医学を学び,吉雄流外科といわれる一派を興した。〈吉雄家学之秘条〉には,紅毛文字,紅毛方言,纏帛(てんはく)法,切脈法,腹診法,服薬法,刺鍼(ししん)法,治創法,療瘍法,整骨法の10ヵ条が定められている。前野良沢,杉田玄白,平賀源内など多くの門下生を養成,《解体新書》には序文を寄せた。訳著には日本最初の尿診断書《因液発備》をはじめ,《正骨要訣》《布斂吉黴瘡(プレンクばいそう)篇》などがある。蘭書,蛮品を収集し,彼の二階座敷は〈オランダ座舗〉と呼ばれ,長崎を訪れる文人墨客が足をとどめた。
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百科事典マイペディア 「吉雄耕牛」の意味・わかりやすい解説

吉雄耕牛【よしおこうぎゅう】

江戸後期のオランダ通詞,蘭方医(らんぽうい)。名は永章(えいしょう),俗称幸左衛門,のち幸作。耕牛は号。1748年大通詞になる。通詞のかたわらオランダの医書を読み,さらに出島のオランダ商館付外科医たちから直接洋方医学を学んで,吉雄流外科をひらいた。門人は前野良沢(りょうたく),杉田玄白平賀源内ら600人余に及び,《解体新書》には序文を寄せている。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「吉雄耕牛」の意味・わかりやすい解説

吉雄耕牛
よしおこうぎゅう

[生]享保9(1724).長崎
[没]寛政12(1800).8.16. 長崎
江戸時代中期の蘭方医。吉雄流外科の開祖。初め定次郎,次いで幸佐衛門,のちに幸作,幸載と称す。諱は永章,号が耕牛,養浩斎,成秀館ともいう。長崎の通詞吉雄藤三郎の長男に生れ,少年時代からオランダ商館に出入りして,寛保2 (1742) 年,19歳で小通詞,寛延1 (48) 年には大通詞となった。通詞のかたわら天文,地理,医学,本草などをオランダ人から学んだ。特に医学では全国から門弟が集り,吉雄流と呼称されるまでになった。門下には前野良沢,杉田玄白,平賀源内らがいる。日本で最初に検尿法を実施し,尿診断書『因液発備』 (2巻) を著わした。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「吉雄耕牛」の解説

吉雄耕牛
よしおこうぎゅう

1724~1800.8.16

江戸中期のオランダ通詞・蘭方医。名は永章,通称は定次郎・幸左衛門・幸作,耕牛は号。1737年(元文2)稽古通詞,42年(寛保2)小通詞,48年(寛延元)大通詞となり,90年(寛政2)まで勤務。出島のオランダ商館医から医術を学ぶ。「因液発備」などの訳著があり,杉田玄白らとの交流が深く,「解体新書」に序文を寄せる。家塾成秀館には各地から入門者が集まった。吉雄邸2階のオランダ風の座敷は有名。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「吉雄耕牛」の解説

吉雄耕牛 よしお-こうぎゅう

1724-1800 江戸時代中期-後期のオランダ通詞,蘭方医。
享保(きょうほう)9年生まれ。代々オランダ通詞で,寛延元年大通詞にすすむ。またオランダ商館付医師から外科医学をまなび,吉雄流外科といわれる一派をおこす。前野良沢,杉田玄白らを指導し,「解体新書」に序文をよせた。寛政12年8月16日死去。77歳。肥前長崎出身。名は永章。通称は幸左衛門,幸作。訳書に「因液発備」など。

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