日本大百科全書(ニッポニカ) の解説
吉見幸和(よしみよしかず)
よしみよしかず
(1673―1761)
江戸中期の神道(しんとう)家。字(あざな)は子礼(しれい)、号は緑山、恭軒(きょうけん)、風水翁、風水散人。寛文(かんぶん)13年9月15日生まれ。祖父の幸勝以来、名古屋東照宮の祠官(しかん)で、1696年(元禄9)家督を継いだ。祖父も神道家であるが、初め松下見林(まつしたけんりん)、のちに正親町公通(おおぎまちきんみち)、玉木葦斎(たまきいさい)(1671―1736)に神道を、浅見絅斎(あさみけいさい)に儒学を、伏原宣通(ふしはらのぶみち)(1667―1741)、壺井義知(つぼいよしちか)(1657―1735)、平田職俊(ひらたもととし)(1633―1711)に有職(ゆうそく)を、中院通躬(なかのいんみちみ)(1668―1740)に和歌を学んだ。とくに垂加(すいか)神道の奥義を究め、神職としても厳しい清浄の生活に徹したが、1728年(享保13)病を得て辞職した。その後は研究に専念、文献学的研究を深め、『五部書説弁』を著して神道五部書を偽書と論証したほか、伊勢(いせ)神道、吉田神道など在来の神道説を鋭く批判した。最晩年は『日本書紀』神代巻の研究に没頭したが、納得できる方法を得ないまま、宝暦(ほうれき)11年4月26日、89歳で没した。
[谷 省吾 2017年10月19日]
『『吉見幸和集』全2冊(1942・国民精神文化研究所)』▽『阿部秋生著『吉見幸和』(1944・春陽堂)』