吉良荘【きらのしょう】
三河国幡豆(はず)郡にあった荘園。現愛知県幡豆郡吉良町を中心に,西尾市にかけての地域に比定される。立荘の時期,経緯などは不明だが,878年清和天皇皇女孟子内親王が幡豆郡内の荒廃田100町を一身田(いっしんでん)として与えられており,あるいはこの地が荘園化したものか。1159年には法服装束の裳の調進が〈吉良御荘〉に命じられている。1177年には崇徳天皇中宮の皇嘉門院聖子(藤原忠通娘)から姪の藤原参子に吉良荘西条が譲られており,参子は預所職に任じられた。1180年吉良荘は皇嘉門院から甥九条良通に譲られ,良通の死後はその父兼実に,1204年には兼実から娘の宜秋門院任子(後鳥羽天皇中宮)へ,さらにその甥九条道家に伝えられた。1250年道家は子一条実経に地頭請所の吉良西荘を,孫忠家に吉良西荘を与えており,以後吉良荘と九条家との関係は不明。なお承久の乱後地頭には足利義氏が任じられていたとみられ,地頭職は義氏の庶子長氏へ伝えられて,長氏の子孫は吉良氏を名乗り戦国期に至った。
→関連項目一色氏
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きらのしょう【吉良荘】
三河国幡豆郡(現,愛知県西尾市,吉良町)の荘園。1159年(平治1)下司平弘蔭が法服装束の裳を調進しているのが史料上の初見で,成立事情等は不明。878年(元慶2)幡豆郡荒廃田100町が清和天皇皇女孟子の一身田とされており,その荘園化したものか。また1177年(治承1)に崇徳天皇中宮皇嘉門院聖子(藤原忠通女)が姪参子を吉良荘西条預所に補任しており,元来は寄進地系の藤原氏領ともみられる。81年(養和1)聖子は甥の九条良通(兼実子)に所領を譲り,以後九条家領。
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