吉良川村(読み)きらがわむら

日本歴史地名大系 「吉良川村」の解説

吉良川村
きらがわむら

[現在地名]室戸市吉良川町

西寺にしでら村の北西から北一帯を占める広域の村で、北西は羽根はね村、北東は山地を隔てて佐喜浜さきのはま村に続く。集落はほぼ平行して南西流するひがしの川と西の川の流域と、海岸段丘、および臨海の平地や砂丘部に散在する。延久二年(一〇七〇)七月八日付の金剛頂寺解案(東寺百合文書)によれば、当時村域一帯は金剛頂こんごうちよう寺領に含まれていた。香美郡大忍おおさと庄内の山川やまがわ(現香我美町)に鎮座する石船いわふね神社の応永三二年(一四二五)八月の鰐口銘(蠧簡集木屑)に「貴良河庄阿弥陀堂」とあり、荘号を冠して記される。

戦国時代には土豪安岡氏が城を構えていた。香美郡韮生にろう白川しらかわ(現香北町)の五百蔵家に伝わる鐙の銘(「古文叢」所収)に「永正十年五月十五日於中村従一条家拝領 土佐喜良川城主安岡越後守平重賢」とあり、当時の状況から考えると、単独あるいは安芸氏の使者として一条氏の城下中村(現中村市)に赴いたのであろう。なお安岡氏の系図(「安芸郡史考」所収)によれば、始祖忠重は平忠正の子で、忠正が保元の乱に敗れて殺されたため、大和国宇智うち安岡やすおか庄で外祖父安岡氏に養育され安岡姓を名乗った。寿永元年(一一八二)頃、源平の争乱を避けて吉良川へ下り、以後金剛頂寺領の荘官または地頭を務めたという。忠重の妻は香美郡の夜須行宗の女、六代貞重の次男は香美郡韮生郷に赴いて五百蔵氏を名乗り、一四代目が重賢である。戦国時代後期、安岡氏は安芸氏に属し、永禄一二年(一五六九)安芸国虎が長宗我部元親に滅ぼされてのちも安芸東部の諸豪族と提携して抗戦。天正二年(一五七四)には羽根坂で元親を要撃したが敗れ、一六代安岡弾正忠重義(左兵衛)はその子宗貞(源兵衛)とともに元親の軍門に降った。乗台寺岡じようだいじおか(現安芸郡奈半利町)城主といわれる安岡出雲守重盛は弟である。

安岡氏の城は東の川河口東南の傍士ほうじ山中腹にあったと伝える。後方に峻嶮な山を負い、前に東の川が流れて、西北方からの攻撃に備えるに足る。また現吉良川小学校の東北、北村きたむら古城こじようの字が残り、天正一七年の吉良川村地検帳にも「古城ノ下」とあるので、ここにも城があったことは間違いない。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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