朝日日本歴史人物事典 「吉田追風(19代)」の解説
吉田追風(19代)
生年:生年不詳
江戸中期の相撲故実家元。名は善左衛門。天明3(1783)年10月家督を相続,寛政1(1789)年11月谷風梶之助と小野川喜三郎に故実と横綱免許を授与した。同3年6月将軍徳川家斉の上覧相撲において家元として行司役を務め,谷風―小野川戦で小野川が立ち合い待ったをしたのを「気負け」とし,谷風に軍配をあげる名裁きをみせた。これを機会に吉田司家と称して横綱免許を独占して,その地位を確立した。このとき幕府に提出した「吉田家先祖書」によれば文治年間(1185~90)に後鳥羽天皇が節会相撲を再興したとき,吉田家次に追風の名が与えられて行司の家と定められたとされているが,確証はない。代々のうち16代が元禄期の善右衛門追風で,熊本藩細川家に抱えられ,藤崎八幡宮の傍らに邸宅を拝領したという。23代善門追風は明治10(1877)年の境川浪右衛門から昭和12(1937)年の双葉山定次まで22人の横綱の免許を行っている。24代長善追風のとき不祥事があり,昭和25(1950)年から横綱免許は司家立ち会いのうえで大日本相撲協会が行うことになり,家督は25代長孝追風に譲られたが,同61年司家が破産して協会とは絶縁となった。<参考文献>荒木精之『相撲道と吉田司家』,肥後相撲協会編『本朝相撲司吉田家』
(水野尚文)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報