吉田神社(読み)よしだじんじゃ

精選版 日本国語大辞典 「吉田神社」の意味・読み・例文・類語

よしだ‐じんじゃ【吉田神社】

[一] 茨城県水戸市宮内町にある神社。旧県社。祭神は日本武尊(やまとたけるのみこと)。延喜式内名神大社。常陸国三の宮。那賀郡一の宮。
[二] 京都市左京区吉田神楽岡町にある神社。旧官幣中社。祭神は健御賀豆知命(たけみかずちのみこと)、伊波比主(いわいぬし)命、天之子八根命、比売(ひめ)神。貞観年間(八五九‐八七七藤原山蔭が奈良の春日大社を勧請(かんじょう)奉斎したのに由来。室町時代、神官吉田兼倶吉田神道を大成、根本斎場の大元宮を建てた。二十二社の一つ。

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デジタル大辞泉 「吉田神社」の意味・読み・例文・類語

よしだ‐じんじゃ【吉田神社】

京都市左京区にある神社。祭神は健御賀豆知命たけみかつちのみことほか三神。貞観年間(859~877)に奈良春日大社から勧請かんじょうして創建。室町末期、神官吉田兼倶よしだかねとも吉田神道を大成し、根本斎場大元宮だいげんきゅうを設けた。

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日本歴史地名大系 「吉田神社」の解説

吉田神社
よしだじんじや

[現在地名]左京区吉田神楽岡町

神楽かぐら(吉田山)の西麓に鎮座。東一条通の東端より表参道が延びる。祭神は建御賀豆智たけみかずち命・伊波比主いわいぬし命・天之子八根あめのこやね(天児屋命)比売ひめ神。旧官幣中社。「伊呂波字類抄」に「永延元年山蔭中納言奉鎮之、春日大原野奉崇之、以榊為正体」とあるが、社伝は貞観年中(八五九―八七七)の勧請とする。「元中納言山蔭一家所祭也」ともいわれ(「大鏡」裏書)、藤原山蔭が氏神として祀っていたが、その子中正の女時姫が関白藤原兼家の室となって詮子(東三条院)を生み、詮子が円融天皇の女御となり一条天皇を生んだことから、以後外戚の氏神として尊崇された。「日本紀略」寛和二年(九八六)一二月一七日条によれば「詔以吉田社大原野、行二季祭、四月中申日、十一月中酉日」と官祭の詔を受け、翌永延元年(九八七)一一月より祭礼が始められた。二季の吉田祭については「江家次第」などに詳しい。当日は祭使が立ち、倭舞なども行われた。社内には著到殿・直会殿・神殿・五間屋・行事所・中門・玉垣があり、当時の貴族の日記には奉幣・神馬奉納の様子がしばしば記される。正暦二年(九九一)には十九社に列し、中世を通じて二十二社の一に数えられ、延文五年(一三六〇)六月には正一位を授けられている(二十二社註式)。一条兼良の「公事根元」には「春日の社と同体也、奈良の京の時は春日社、長岡の京の時は大原野、いまの平安城の時は吉田社也、みな帝都ちかき所をしめて、御門をまもり奉らせたまふにや」と、藤原氏の氏神としての性格を記し、「御堂の関白(藤原道長)の法成寺と吉田社とをあがめ給ひし事は、興福寺と春日社とに、おもひよせられける」と続ける。鎌倉時代には武家の崇敬も集めた。嘉禎元年(一二三五)一二月二四日将軍九条頼経の病気平癒祈願に伊勢・山城石清水いわしみずなどの諸社とともに大般若転読・神楽奉納がなされ、暦仁元年(一二三八)八月二五日には頼経が賀茂・祇園・北野・吉田各社に参詣している(吾妻鏡)

社地は「山城名勝志」が「社家説云、当社元坐吉田山西、文明中遷神楽岡麓、旧趾今有二株松、若宮殿跡、在石像弥勒堂東南」と記すように、初め現左京区吉田二本松よしだにほんまつ町の辺りにあったといわれ、現在地への遷座は文明年中(一四六九―八七)とされる。

吉田神社
よしだじんじや

[現在地名]水戸市宮内町

陸前浜りくぜんはま街道の西側の台地端に鎮座。祭神は日本武尊。旧県社。奈良時代以前の創立と思われる。

承和一三年(八四六)官社吉田神は大社から従五位下勲八等名神に昇格し(続日本後紀)、天安元年(八五七)従四位下(文徳実録)、貞観五年(八六三)従四位上(三代実録)、元慶二年(八七八)正四位下(同書)となり、「延喜式」神名帳には名神大とある。吉田神の神位が古代においてしだいに高まり、常陸国で第三位、那賀郡で第一位となったのは、武神日本武尊の奉斎と蝦夷鎮定との密接な関係および水戸西方にあった那賀郡領宇治部氏の衰退との関係があろう。

吉田神社
よしだじんじや

[現在地名]勝田市東石川

国鉄常磐線勝田駅の東方にある。祭神は日本武尊。旧村社。初め八幡宮と称し、寛文三年(一六六三)の鎮守開基帳(彰考館蔵)大島おおしま村の項によると真言宗覚成院の管理下にあり、「八幡縁起無御座候元亀五年造立仕候棟札御座候(中略)其先之儀知不申候」と記される。

「鴨志田家旧記」(「勝田市史」所収)によると、八幡宮は、康治元年(一一四二)山城国の石清水八幡宮を勧請して外野そとの村地内の石川いしかわ境に建立され、延文年間(一三五六―六一)分村になって外石川そといしかわ村地内となり、外野・大島おおしま堀口ほりぐち武田たけだ勝倉かつぐら三反田みたんだ金上かねあげ・外石川八ヵ村の鎮守として祀られていたが、天正年間(一五七三―九二)に外野を除く七ヵ村が氏子を離れ、外野一村で祀ってきたという。

吉田神社
よしだじんじや

[現在地名]御殿場市中清水

中清水なかしみず集落の南東部、山神社の境内地にある。文化三年(一八〇六)に京都吉田神社(現京都市左京区)の分霊を勧請した社であるが、元来は神輿そのものが社で、特定の鎮座地はなかった。しかし昭和一一年(一九三六)に将来認定が必要になった場合を考え、勧請した吉田神社の御守鎮札を納めた小祠を安置していた中清水の山神社境内に社殿を建立した。武甕槌命・経津主命・天児屋根命・比売命の四柱を祀る。

「富士岡村誌」や中山なかやま村四代目九兵衛の安政五年(一八五八)の記録(小沢家文書)などによると、文化三年頃に当村を含む中山・二子ふたご沼田ぬまた萩蕪はぎかぶかまど駒門こまかど大坂おおさかの八ヵ村(八ヶ郷)の組合村々では身入狐(狐付)の病が大流行し、罹病した者は一〇〇名を超え、死者も五〇余名を数えたという。

吉田神社
よしだじんじや

[現在地名]豊橋市関屋町

吉田城と堀を隔てて西にある。創建年代は不詳。もと牛頭天王社・天王社とも吉田天王社とも称した。祭神素盞嗚命。旧県社。社伝によると治承二年(一一七八)源頼朝が雲谷普門うのやふもん寺に在宿の時、祈願のため鈴木十郎元利を代拝させ、文治二年(一一八六)には石田次郎為久が将軍の代参をしたという。また三河守護安達藤九郎盛長は社殿を造営したという。

天文二三年(一五五四)の今川義元寄進状に「参河国吉田天王社神領之事」として新たに六貫一〇〇文の寄進を受けている。

吉田神社
よしだじんじや

[現在地名]那珂町向山

向山むこうやまの北の高台にあり、森に囲まれて鎮座する。祭神は日本武尊。旧村社。縁起では承暦四年(一〇八〇)の創立という。古く向山村には壺井つぼい八幡・誉田よだ八幡・宇佐八幡の三社が鎮斎されていたといわれ、のち白鳥しらとりの地に合祀して白鳥八幡宮と称したが、元禄九年(一六九六)徳川光圀の命で吉田神社(現水戸市)の神霊を現在地に奉斎して、吉田神社と改称した(茨城県神社誌、明治二八年村社吉田神社取調書)

吉田神社
よしだじんじや

[現在地名]那珂町横堀

横堀よこぼりのほぼ中央、森に囲まれた字だいに鎮座する。祭神は日本武尊。旧村社。縁起によると応永一〇年(一四〇三)小野崎越前守が字駒形こまがたの地に八幡の神を勧請し駒形八幡と称した。元禄九年(一六九六)徳川光圀の命でこれを廃し、吉田神社(現水戸市)の神宝を鎮斎して一村の鎮守とした。

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改訂新版 世界大百科事典 「吉田神社」の意味・わかりやすい解説

吉田神社 (よしだじんじゃ)

京都市左京区吉田神楽岡町に鎮座。建御賀豆智(たけみかずち)命,伊波比主(いわいぬし)命,天之子八根(あめのこやね)命,比売神をまつる。奈良の春日社を勧請した神社。すなわち,藤原氏がその氏神春日社を長岡京に勧請して大原野神社を創建したと同様に,平安京に勧請したのが当社である。藤原氏北家の中納言山蔭が貞観年中(859-877)に春日四神をこの地に勧請,氏神として奉斎したことに始まる。その子中正の女時姫が関白兼家の室となり詮子(東三条院)を生み,詮子が円融天皇の女御となり一条天皇を生んだことから,986年(寛和2)一条天皇即位ののち,同年12月円融上皇の詔により大原野神社に準じ,二季の官幣にあずかることとなり,翌年より実施された。以後外戚の氏神として尊崇され,1106年(嘉承1)官符により四度の奉幣にあずかることとなり,二十二社の列に加わり,4月と11月の中酉日に官祭が行われることとなった。神階は1356年(正平11・延文1)正一位。神祇官僚官の卜部氏の兼親が初めて預となって以降,その職を継承して吉田氏を称したが,室町中期以降神祇官の衰退期に兼俱が出て唯一宗源神道吉田神道)を唱えて神社界を風靡し,1484年(文明16)本社に接近して斎場所大元宮(だいげんぐう)を設けた。以降,江戸末期まで吉田神道の本拠地ともなった。江戸時代には社領190石。旧官幣中社。例祭4月18日。2月節分祭が斎場所で行われる。本殿は1648年(慶安1)修築,丹塗4棟の春日造。本殿南南東に離れて斎場所社殿があり,現在末社の一つとされる。中央にある大元宮の現社殿(重文)は,吉田兼俱の創建のあと1601年(慶長6)の再建で,八角殿,入母屋造で茅葺き
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百科事典マイペディア 「吉田神社」の意味・わかりやすい解説

吉田神社【よしだじんじゃ】

京都市左京区吉田神楽岡町に鎮座。旧官幣中社。武甕槌(たけみかづち)神,斎主(いわいぬし)神,天児屋(あめのこやね)命,比売(ひめ)神をまつる。9世紀半ば春日(かすが)大社藤原氏が分祀して創建。大原野神社と並んで崇敬された。代々卜部(うらべ)氏が奉仕。中世には吉田神道の中心となり,吉田兼倶が根本斎場として大元宮を建設(八角の本殿に六角の後房をもつ)。また宮中の八神殿も移した。本殿は四棟(むね)の春日造。例祭は4月18日。
→関連項目卜部氏神祇官豊国神社

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「吉田神社」の解説

吉田神社
よしだじんじゃ

京都市左京区に鎮座。二十二社下社。旧官幣中社。祭神は健御賀豆智(たけみかずち)神・伊波比主(いわいぬし)神・天之子八根(あめのこやね)神・比売(ひめ)神。貞観年間に中納言藤原山蔭により春日四神を勧請したのが創祀と伝えられ,平安京近郊の藤原氏の氏神として信仰された。神職は987年(永延元)から卜部(うらべ)氏(のち吉田氏と称する)が世襲し,室町時代には吉田兼倶(かねとも)が吉田神道を開き,神社を再興。例祭は4月18日(以前は4月中申日・11月中酉日)。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「吉田神社」の意味・わかりやすい解説

吉田神社
よしだじんじゃ

京都市左京区に鎮座する元官幣中社。祭神はタケミカズチノミコト,イワイヌシノミコト,アメノコヤネノミコト,ヒメガミの4神。奈良の春日神社の分社。社務を司った吉田家から室町時代末期に吉田兼倶が出て,吉田神道を唱えたことで知られる。例祭4月 18日。

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デジタル大辞泉プラス 「吉田神社」の解説

吉田神社

京都府京都市左京区にある神社。9世紀創建と伝わる。祭神は健御賀豆知命(たけみかづちのみこと)、伊波比主命(いわいぬしのみこと)、天之子八根命(あめのこやねのみこと)、比売神(ひめがみ)。節分祭が有名で全国から参拝客が集まる。斎場大元宮の本殿は国の重要文化財

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世界大百科事典(旧版)内の吉田神社の言及

【斎場】より

…祭礼行事のため,常設あるいは臨時に設けられる清浄な場所。大嘗祭(だいじようさい)の斎場,吉田神社の斎場所などが有名である。大嘗祭では悠紀(ゆき),主基(すき)の両斎国よりもたらされる稲穀や他の国々から献上される由加物などを納入する所を斎場という。…

【吉田神道】より

…室町時代後期に京都の吉田神社の神官吉田兼俱(かねとも)がおこした神道の一流派。兼俱自身は,元本宗源(げんぽんそうげん)神道,唯一宗源神道,唯一神道などと称したが,一般には吉田神道,卜部(うらべ)神道と呼ばれる。…

※「吉田神社」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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