司馬遷(中国、前漢の歴史家)(読み)しばせん

日本大百科全書(ニッポニカ) の解説

司馬遷(中国、前漢の歴史家)
しばせん

没年不詳。中国、前漢の歴史家。字(あざな)は子長、太史公(たいしこう)とも尊称された。生年は紀元前145年または前135年の2説があり、没年は不明であるが、その生涯はだいたい漢の武帝(ぶてい)の治世(前141~前87)に終始したと考えられる。夏陽(かよう)(陝西(せんせい)省韓城(かんじょう)県)の出身で、太史令(朝廷の記録や天文をつかさどる)の官にあった司馬談(だん)の子として生まれ、のちに茂陵(もりょう)(西安市北西)に籍を移した。幼少のころから古文で書かれた典籍を読み習い、また全国を周遊しては史跡を訪れ、その見聞を広めた。前110年、父司馬談は武帝が挙行した泰山での封禅(ほうぜん)の儀式に参列を許されなかったことを苦に憤死したが、死ぬまぎわに、古代から当時までの歴史を著作することを司馬遷に託した。

 前108年、父に次いで太史令に任ぜられた司馬遷は、まず暦の改正に従事し、前104年に太初暦(たいしょれき)を完成すると、父の遺言に従って通史編纂(へんさん)に着手した。たまたま前99年、漢の将軍李陵(りりょう)が匈奴(きょうど)と戦って敗れ、捕虜となる事件が起きた。李陵の処分を決める席上では、一家皆殺しの意見が大多数を占めたが、司馬遷は一人李陵の忠節と勇敢さをたたえて弁護したために、武帝の激怒を買い、宮刑に処せられた。数年ののち出獄して中書令の官に復帰したが、彼はこれによる精神的打撃にも屈せず、かえって勇猛心を鼓して通史の著作に全力を傾注し、ついに『史記』130巻を完成した。

 彼が『史記』を著述した直接の動機は、父の遺命を受けたことによる。しかし、父の憤死と執筆の途上での李陵の禍は、人間の運命について大きな疑問を抱かせ、ついに事実の正確な検討を通じて人間の総合的な価値を決定し、因果関係の不合理性を天にかわって修正することに歴史学のもつ特別な意味を発見するに至った。そのため、『史記』のなかでもとくに列伝の部分が異彩を放ち、『史記』とともに司馬遷の名を不朽にしたのである。当時の彼の心情と歴史に対する情熱は、友人任安に与えた手紙のなかからくみ取ることができる。

[貝塚茂樹]

『武田泰淳著『司馬遷――史記の世界――』(講談社文庫)』『貝塚茂樹著『史記――中国古代の人びと』(中公新書)』『中島敦著『李陵・弟子・名人伝』(角川文庫)』


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