右田ヶ岳城跡(読み)みぎたがだけじようあと

日本歴史地名大系 「右田ヶ岳城跡」の解説

右田ヶ岳城跡
みぎたがだけじようあと

[現在地名]防府市大字下右田

佐波さば川右岸の右田ヶ岳(四二六メートル)にある。「地下上申」は右田ヶ岳(古名城山)は三峰あることを記し、「南之峰をば大輔殿丸と申候、古城跡と申伝候、于今所々石垣残たる所柄御座候、此謂を以城山共申来候」とし、続けて次のように記す。

<資料は省略されています>

右田の地を領して右田を姓とした最初は、大内氏一六世盛房の弟盛長といわれ、その孫盛俊とその子弘俊が小大夫を名乗ったらしいから、大輔殿丸の伝承からすれば盛俊か弘俊頃の築城と思われる(防長地名淵鑑)

文献では嘉吉二年(一四四二)二月二〇日付で大内教弘が毛利元秀に宛てた書状(「閥閲録」所収厚母七郎兵衛家文書)に「此辺にも城をあまた取候、右田岳も執候て屏手合候、関戸・山代・高水にも城を取候」とあるのが早いか。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報