台町(読み)だいまち

日本歴史地名大系 「台町」の解説

台町
だいまち

[現在地名]関宿町台町

関宿城の南東方、腕木門を境として武家町であるひろ町の南東に続く町人町。関宿城下町人町の中心で、寺院の敷地も多く、寺町の性格も併せ持っていた。戦国時代、簗田氏に替わって関宿城を掌握した小田原北条氏は、同城下の再編成にあたって従来の宿(内宿)・新宿(外宿)を改組して台宿を立てたが、この台宿が当町の前身である。町並は南東―北西に走る日光東往還沿いに形成され、さらに同往還の北西端、広町境で北東に折れる道沿いにも発達した。この道は町並のはずれで北に折れて利根川べりに至る。この対岸が新河岸で、同河岸を経て猿島さしまさかい(現茨城県境町)に続いた。なお町並の裏手には耕地が広がっており、郷村帳類では台町村として高付されている。たとえば元文元年(一七三六)境町より佐原村(現佐原市)までの利根川通出洲の流作場願が出された際、当町などは古来からの秣場や運上野・葭野などまで見分され、願人に引渡されては惣百姓が難儀するとして反対しているが、この反対願書に当町では名主・組頭・百姓代の三名(古谷家文書)が署名しており、村方として扱われている。

台町
だいまち

[現在地名]酒田市日吉町ひよしちよう一―二丁目・南新町みなみしんまち一丁目・北新町きたしんまち一丁目

かみ小路から北の持地じち院門前に続く通りの両側町の上台町と、西側に並行に南北に連なる両側町の下台町、さらに両町を結ぶ小路からなる。明暦二年(一六五六)から天和三年(一六八三)の間に町割が行われ、町奉行中台式右衛門の名字の一字をとって町名にしたといわれる。当町は寛文年間(一六六一―七三)以降の湊の繁栄にともなって成立した。明暦二年の酒田町絵図(大泉叢誌)ではのちの町域に砂山とある。天和三年の酒田町割家数人数書上(鶏肋編)によると上台町二町・裏町二町、家数一二四・人数五二二。下台町二町・裏町二町、家数八一・人数三五五。文化六年(一八〇九)には家数二八二(「市正色々記」阿部正己資料)、明治三年(一八七〇)の家数二六四(「総家数並寺院畝数調」野附文書)

台町
だいまち

[現在地名]真岡市台町

現真岡市街地の北西部を占め、五行ごぎよう川右岸に突起する小丘陵に立地。慶長三年(一五九八)宇都宮藩領、同六年真岡藩領、寛永九年(一六三二)相模小田原藩領となる。真岡城はこのとき廃城となり、同藩の出張陣屋に真岡奉行が赴任した。天明三年(一七八三)幕府領となる。慶安郷帳によれば、田高三七四石余・畑高六七八石余、ほかに海潮かいちよう寺二〇石・阿放改寺五石・薬師五石。寛文一〇年(一六七〇)の村々明細帳(渡辺善兵衛文書)によれば、町の東西三〇町二〇間・南北二三町一〇間、田四七町二反余・五〇二石余、畑一九六町余・一千七二石余、年貢米二三四石余・永一一八貫五七一文、家数一六七(うち無田百姓三七)・人数八〇二、馬四八、寺四で西福寺(朱印高五石・寄付高三石六斗余)・東光寺(朱印高五石・寄付高一石三斗余)密蔵院(寄付高四石余)・正覚寺(寄付高一石三斗余)・真岡寺(寄付高二石六斗余)

台町
だいまち

[現在地名]函館市船見町ふなみちよう

明治五年(一八七二)二月に一町として公認された町(同年「御達留」市立函館図書館蔵、「事業報告」第一編)駒止こまどめ町の西に位置し(明治六年函館旧市街図)、近世末に弁天岬べんてんさき台場築造のため、土砂を採掘してできた台地上を占める(函館地名考)。安政元年(一八五四)、来航中に死亡したペリー艦隊の水夫二人を当地の高台に葬ったことが契機となり、明治時代に入ると町西部の一画は外人墓地とよばれるようになる。

台町
だいまち

[現在地名]水戸市元台もとだい

藤柄ふじがら町からしん坂あるいはおんな坂を上り、台地上の水戸街道に沿い、大工だいく町に至るまでをいう。もとは吉田よしだ村地内であったが、寛永二年(一六二五)下町したまちの町家とした。「水府地名考」に「寛永正保の比は、吉田町、或は台宿なとゝも唱へしなり、万治二年の比より、台町の名目見へたるよし、正保の比迄ハ、長岡よりの往還開けされば、町のさまも、今の如くにはあらさりしなるへし、慶安元年、長岡海道開けしよし、其時今の如くにはなりしと見ゆ」とある。

台町
だいまち

昭和一三年(一九三八)大字網走村の一部を割いて設置された。市街地南東方向の台地上にある。近代以降の網走港築港以前はオホーツク海に面し、前近代にはノッカとよばれていた(「廻浦日記」など)東端に「西蝦夷日誌」にスケッチされているシレト(知人岬)があり、記念碑が建つ。岬は海岸線の難所として永く通行を阻んでいたが、第二次世界大戦後の海岸部埋立と道路開削のため変貌した。昭和四七年には一部が港町みなとまち南十条東みなみじゆうじようひがしに編入された。

台町
だいのまち

[現在地名]会津若松市宮町みやまち

南は東西に通る願成就寺前がんじようじゆじまえ通の末より、北は阿弥陀あみだ町の西角に至る、長さ一町二四間・幅三間余、家数一七(新編会津風土記)。西側の町々より、土地が少し高いので町名となった。屋敷やしき町より北の通りを浄光寺じようこうじ町ともよんだ。浄光寺が移転した跡地に、正保三年(一六四六)薬師堂が建ち、その西側に別当延寿院が建立された(同書)

台町
だいまち

[現在地名]大館市十二所 十二所町

十二所じゆうにしよ町の南端部に位置する武家町。幕末期の十二所士族屋敷図に「台丁」とある。北にかた町、東に元館もとだて町がある。東西に走る道路沿いに形成され西は袋路となる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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