口分田(読み)クブンデン

デジタル大辞泉 「口分田」の意味・読み・例文・類語

くぶん‐でん【口分田】

大化の改新後、班田収授法により、人民に支給された田。6歳以上の良民の男子には二たん、女子にはその3分の2、賤民のうち官戸公奴婢くぬひには良民と同額、家人私奴婢には良民の3分の1を支給。収穫の約3パーセントを田租として徴税した。
古代中国で、均田法により人民に支給された田。

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精選版 日本国語大辞典 「口分田」の意味・読み・例文・類語

くぶん‐でん【口分田】

〘名〙
① 令制下で、班田法に基づいて公民に分け与えられた田地。口は人の意味。六歳に達した良民すべてに、男は一人に二段(たん)、女はその三分の二を与え、これを耕作させて租税源を確保しようとしたもの。平安初期の一〇世紀初頭にはこの制度は崩壊して実質を失った。→班田収授
令義解(718)田「凡給口分田者。男二段。〈女減三分之一〉」
② 中国の均田法により人民に支給された田。唐以前は露田といい、受田額は時代、身分、年齢、性別によりちがいがあるが、たとえば唐代には一八~五九歳の男子の受田は八〇畝であった。死亡または六〇歳になると国に返した。

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改訂新版 世界大百科事典 「口分田」の意味・わかりやすい解説

口分田 (くぶんでん)

唐の均田法において給田の主体をなす土地。北魏から隋までは露田(樹木の植わっていないはだかの地の意)と呼ばれたが,個人に割り当てられた田土の意味でこの語が普及し,唐の田令では正式呼称となった。一丁男(18歳以上の中男も同じ)に対し80畝(4.4ha),老男や障害男には40畝,寡婦および丁中以外の戸主には30畝が規定額で,田地不足の狭郷では半減される定めであった。しかし実際の給田率は低く,私田を帳簿上口分田に充当するのが一般であった。
執筆者:

班田収授法において,戸口数に比例して戸を単位として班給される田。輸租田。原則として水田であるが,特定の地域では陸田をも交えた。大宝・養老令の規定では6歳以上の全国民に班給し,死亡によって収公する。その法定面積は男に2段(約2.4a),女にその2/3の1段120歩(約1.6a),奴婢はそれぞれ良民男女の1/3で奴に240歩(約0.8a),婢に160歩(約0.53a)であったが,班給の実例をみると,国ごとにこの法定額を減額した基準授田額を設定して班給した場合が多いと思われる。出生,死亡などによる戸口数の増減に伴う口分田額の調整は,6年ごとにつくられる戸籍に基づいて,同じく6年ごとにめぐりくる班田収授の年に行われた。8世紀半ばから9世紀にかけて口分田の一部荒廃・再開墾という過程を経て初期荘園の中に吸収され,また9世紀半ば以降,班田収授が励行されなくなると,口分田の多くは名田()として再編成されていったらしい。
班田制
執筆者:

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「口分田」の意味・わかりやすい解説

口分田
くぶんでん

律令制(りつりょうせい)土地制度の中心となった地目。6歳以上のすべての良民、賤民(せんみん)に班給され、死亡すると収公された。班給額は良民の男子は2段(たん)(約22アール)、女子はその3分の2(1段120歩(ぶ))であり、賤民中の官戸(かんこ)・公奴婢(くぬひ)の口分田は良民男女と同額であったが、家人(けにん)、私奴婢(しぬひ)は良民男女のそれぞれ3分の1であった。輸租田(ゆそでん)で、令の規定によれば1段につき稲2束(そく)2把(わ)の田租を納めることになっていた(慶雲3年=706年の格(きゃく)により1束5把となる)。班田収授は6年に一度行われたが、その班年に死亡者の分を収公し、新規受給者に班給する形をとった。なお、大宝(たいほう)令の収公規定は養老(ようろう)令のそれと異なり、初班者が次の班年以前に死亡した場合に限り、次の次の班年に収公する定めであったらしい。

 口分田の田主権は戸主にあったが、その田主権はきわめて制限されたものであった。すなわち、口分田の用益は終身間であり、処分については、1年を限り所在の国司・郡司の許可を得て賃租(ちんそ)(賃貸借による耕作)を行うことが認められるのみで、売買、相続、譲与などは許されなかった。このような田主権の弱さは、班田制施行時においてなお農民の耕地=水田に対する私的土地所有が未成熟であったことに基因している。

 中国の均田制においては、口分田(露田)は国家に対し公課を負担する者のみに支給する、という原則が存在したが、日本の口分田にはそのような授田対象と賦課対象の対応はみられない。日本の場合は、女子、子供に対しても給田していることから知られるように、農民の戸の再生産に対する国家の配慮、関与が明瞭(めいりょう)にみられる。これはわが班田収授制の一大特徴といってよい。

[村山光一]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「口分田」の意味・わかりやすい解説

口分田
くぶんでん

口分とは人数に割当てることをいい,班田法に基づいて人ごとに割当てられた田をいう。大化改新によって,従来の私有地,私有民は公地公民となったが,親王以下奴婢 (ぬひ) にいたるまで (僧侶を除く) 一定面積の田を分ち与え,終身用益権を認めた。『大宝令』によれば良民の男子には2段 (約 23a) ,女子にはその3分の2の1段 120歩 (約 16a) が支給され,段別2束2把の田租が課せられた。賤民のうち官戸官奴婢は良民と同額であったが,これは不輸租田であり,家人 (けにん) ,私奴婢には男女ともそれぞれ良民の3分の1,すなわち男 240歩 (約 8a) ,女 160歩 (約 5a) が与えられたが,これは輸租田であった。班田は,男女とも6歳になるとその資格が生じたが,班年 (班給の年) に際してつくられた戸籍が台帳となったことと,班年が6年ごとであったことから,班年のときに5歳であったものは次の班年の 11歳になって初めて支給された。また死亡した場合でも班年になるまで収公されず,同一戸籍内のものが耕作する義務があった。口分田は原則として住居に近い田が支給されることになっていたが,場合によっては他郡に及ぶ場合もあった。田には上,下の差があったが,その差は考慮されなかった。ただし,やせ田で隔年にしか耕作できない田は2倍の額が与えられた。この田を易田 (えきでん) という。口分田は全国にわたって全国民に実施するたてまえであったが,九州南部のように実施が遅くなったところや,平安時代初期には6年ごとには実施されず,口分田を与えられない農民も生じた。しかし,農民の側にあっても戸籍を偽り,口分田の売買,質入れをするものも生じ,10世紀初めにはほとんど崩壊するにいたった。 (→班田収授法 , 律令制 )  

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百科事典マイペディア 「口分田」の意味・わかりやすい解説

口分田【くぶんでん】

唐の均田法,日本古代の班田収授法で,農民各個人に終身貸与された耕地。均田法では,18歳以上の男子に80畝(日本の約4町4段),60歳以上は半減,死ねば収公の規定であった。大宝令・養老令の班田法では6歳以上の男子に2段,死ねば収公の規定であったが,均田法と違って女子にも男子の3分の2の1段120歩,奴婢(ぬひ)のうち奴に240歩,婢に180歩を授与した。
→関連項目駅子官戸糞置荘国衙領賃租新島荘奴婢輸租田

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「口分田」の解説

口分田
くぶんでん

班田収授の法に従い,戸口数により,戸を単位として班給される田地。輸租田。飛鳥浄御原令(きよみはらりょう)制下では受給資格に制限はなかったらしいが,大宝令以後,6歳以上という年齢制限が付された。死亡後は班年に国家に返還される。法定面積は男子に2段,女子に1段120歩(家人・私奴婢はそれぞれ3分の1)であったが,現存する戸籍などによると,実際はそれに満たないのがふつうで,国ごとの基準額で実施していたらしい。居宅の近くに班給される原則に対して,郡や国をこえての支給もみられる。また律令法上は有主田で私田とされていたが,のち公田と意識されていった。もっとも班田収授が実施されなくなると事実上私有田となり,初期荘園に吸収されたり,名(みょう)に再編成されたりしていった。

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旺文社日本史事典 三訂版 「口分田」の解説

口分田
くぶんでん

班田収授法により親王・貴族以下各人に支給され,終身使用・用益を許された田
人(=口)ごとに分けられる田の意。律令制では6歳以上の良民・官戸・公奴婢の男子には2段(23.4アール),女子にはその3分の2,家人・私奴婢は良民男女の3分の1が支給された。口分田は輸租田(官戸・公奴婢の口分田のみは不輸租)で6年ごとに班給され,死亡すると次の班給のとき収公された。公有が原則で売買・質入れなどは認められなかったが,班田制の崩壊とともに平安時代にはしだいに私有化され,名田 (みようでん) が成立する一要因となった。

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防府市歴史用語集 「口分田」の解説

口分田

 班田収授法[はんでんしゅうじゅほう]によって、一般の農民に与えられる、国家がもっている田のことです。大宝律令[たいほうりつりょう]では、戸籍[こせき]に書かれた6歳以上の男女に与えられ、死後は返さないといけませんでした。男子で2段[たん](約2380?)、女子はその3分の2を与えられました。しかし、班田収授法が行われなくなると、実際は私有地になってしまいます。

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旺文社世界史事典 三訂版 「口分田」の解説

口分田
くぶんでん

唐代に完成した均田制により人民に支給された田
丁男(だいたい21〜59歳)および中男(だいたい16〜20歳)には20畝 (ぽ) の永業田とともに80畝の口分田を給し,老男(60歳以上)は半減,死後国家に返還させた。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「口分田」の解説

口分田(くぶんでん)

均田制(きんでんせい)

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世界大百科事典(旧版)内の口分田の言及

【易田】より

…〈やくでん〉ともよむ。大宝令・養老令の田令の規定では,易田を口分田として班給する際には倍給する定めであった。ただし,実際に易田が口分田として班給されたことを示す史料上の初見は,平安時代初期の821年(弘仁12)で,この少し前あたりから特定の地域で,従来の口分田の中の特に劣悪な田を臨時的に易田と認定することが行われたらしい。…

【公地公民】より

…大化改新によって私地私民を廃止し,公地公民の政策が打ち出され,約半世紀後の大宝律令の施行によって公地公民制が確立したというのが通説である。しかし,すでに中田薫が指摘しているように,律令においては,口分田(くぶんでん)は私田とされていた。口分田を公民に班給する班田収授制は,公地公民制の中心的な施策と考えられてきたが,その口分田が律令においては公田でなく私田とされていたのである。…

【損田法】より

…それら諸田と収租の明細は,毎年国司により租帳に記載され,貢調使に付して中央に報告されたが,その際,損田の実状把握とそれに対する租税免除をいかにするかが不堪佃田の処分とともにもっとも重要な問題であった。(1)戸別損田の損免法 賦役令水旱条には,律令田制の基幹である口分田について,戸別の田積を10分とし,損5分以上戸は租,損7分以上戸は租・調,損8分以上戸は租・調・庸・雑徭(課役)をそれぞれ免除(見不輸)とし,国司はその実状を検し,詳細に記録して太政官に上申することが定められている。損4分以下戸は,令条に規定がないが,実際には損分の租を免除(半輸)することが国司の処分にゆだねられていた。…

※「口分田」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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