厳島の戦(読み)いつくしまのたたかい

改訂新版 世界大百科事典 「厳島の戦」の意味・わかりやすい解説

厳島の戦 (いつくしまのたたかい)

1555年(弘治1)毛利元就が,安芸厳島に進駐した陶晴賢(すえはるかた)を討った戦い。これ以後毛利氏の中国地方制覇の道がひらかれる。51年(天文20)陶晴賢(隆房)は,その主大内義隆を殺し権勢をほしいままにした。安芸・備後両国をようやく支配下におさめた毛利元就は,陶氏に協力の態度を示したが,54年5月,陶氏に反抗している石見国津和野の吉見氏に呼応して陶氏と絶った。安芸国南西部より陶氏勢力を追放し,厳島をもその支配下においた。陶氏は,毛利氏を討つために55年9月21日厳島に上陸し,塔の岡に本陣を置き,毛利方の宮尾城を攻撃した。毛利氏は9月晦日の暴風雨の夜に軍を進め,元就は包ヶ浦に上陸して背後から,小早川隆景は厳島神社の正面から,翌朝同時に晴賢の陣を襲った。4000余の毛利軍が,2万の陶軍を全滅させたのである。毛利氏の勝因として能島,来島,因島の村上水軍が荷担したこともあげられる。
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山川 日本史小辞典 改訂新版 「厳島の戦」の解説

厳島の戦
いつくしまのたたかい

1555年(弘治元)毛利元就(もとなり)が大内氏の実権を握る陶晴賢(すえはるかた)を破った戦。安芸・備後に勢力を及ぼした毛利氏は,陶氏に対してまだ劣勢だったが,54年(天文23)5月,陶氏が石見国津和野(つわの)の吉見氏を攻めたのを機に決起。厳島を占領,広島湾頭を制圧した。これを知った晴賢は,ただちに吉見氏と和睦し,軍を率いて55年9月21日,厳島に上陸。毛利方が築いた宮ノ尾城を攻めた。報をうけた元就は100艘ほどの船を徴発し,30日夜,荒波をついて島に上陸し,陶氏が本陣を構える塔ノ岡を背後から襲った。狭い島内に大軍を集結させていた陶軍は大混乱となり,即座に勝敗はきまった。晴賢は島の西岸大江までのがれたが,ここで自刃。元就方には村上水軍が味方についていた。この勝利の後,大勢は毛利方に有利になる。

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百科事典マイペディア 「厳島の戦」の意味・わかりやすい解説

厳島の戦【いつくしまのたたかい】

1555年安芸国(あきのくに)厳島で戦われた毛利元就陶晴賢(すえはるかた)の合戦。元就が晴賢を厳島に破り瀬戸内海海上権手中にし,毛利氏興隆の契機をつかんだ。
→関連項目村上水軍毛利隆元

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