精選版 日本国語大辞典 「原敬」の意味・読み・例文・類語
はら‐たかし【原敬】
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明治・大正期の政治家。盛岡藩重臣の次男。1871年(明治4)上京してカトリックの神父の学僕となり苦学。76年司法省法学校に入学,79年〈賄(まかない)征伐〉で退校,改進党系の《郵便報知新聞》記者となる。82年官僚派の《大東日報》主筆に転進。井上毅,井上馨に認められ同年外務省に入り,翌年天津領事として赴任,才腕を示し,85年パリ公使館書記官に転じた。89年,外相大隈重信をきらって農商務省に移り,陸奥宗光の知遇を受け,通商局長を経て,95年外務次官に進んだ。この間,外交官採用制度を確立,日清戦争時の陸奥外交を補佐した。96年公使として朝鮮に赴き,閔妃(びんひ)殺害事件のあとの日本勢力回復に努め,翌年大隈がまた外相となったのを機会に退官,大阪財界に迎えられて《大阪毎日新聞》社長に就任,読者を3倍に増やす経営手腕を発揮した。
このあと1900年政友会結成に参画,幹事長を経て第4次伊藤博文内閣の逓信大臣に就任。翌年北浜銀行頭取,さらに05年には陸奥の親戚で井上馨が監督する古河鉱業の副社長になった。この間,02年盛岡市より代議士に選出,以来その死まで連続当選した。日露戦争中より桂太郎首相と戦後の政権授受につき交渉を進め,06年1月西園寺公望内閣を実現させ,内務大臣に就任。ついで11年8月成立の第2次西園寺内閣でも内相として入閣。12年末二個師団増設問題により内閣が倒れるまで,いわゆる桂園内閣時代において,松田正久とならぶ政友会の二大支柱の一人として活躍した。すなわち内務官僚の政友会接近を促進し,一方,鉄道・港湾事業により政友会の地盤を拡大し,政友会が衆議院議席の過半数を占めることに成功した。この勢力を背景に,抜群の交渉能力をもって藩閥勢力と取引し,他方では郡制廃止,小選挙区制法案などで藩閥勢力を脅かし,政友会の政治的地位を高めた。第1次護憲運動で桂内閣を倒したあと,第1次山本権兵衛内閣の内相となり,西園寺引退のあとを受けて14年6月政友会総裁に就任した。15年3月の第12回総選挙では第2次大隈内閣の野党として大敗を喫し第二党に転落したが,党内とりまとめにも手腕を発揮し,次の寺内正毅内閣では是々非々主義の立場を示しながらも外交調査会に参加するなど準与党の地位につき,17年4月の第13回総選挙で第一党に返り咲いた。
18年夏の米騒動では事態を静観し,寺内辞任のあとを受けて,政党政治家として最初の首相に指名され,陸・海・外3相を除く閣僚に政友会員をあてる最初の政党内閣を9月29日に組織した。世論は爵位をもたず衆議院に議席をもつ首相の初めての出現を〈平民宰相〉と呼んで歓呼して迎えた。第1次大戦以来の好況下における資本主義の急速な発展を背景に,国防の充実,教育の振興,産業の奨励,交通機関の整備の四大政綱を掲げて積極政策を推進し党勢の拡大に努め,第41議会で小選挙区制を実現し,第42議会を解散して政友会の絶対多数を実現した。この力を背景に,進歩的社会運動を抑圧し,普選即行,治安警察法改正などの要求を拒んだ。対外的にはイギリス,アメリカとの協調に努めつつ中国権益の維持をはかり,三・一運動を契機に植民地長官武官制を文武官併任に改めた。
第1次大戦後の階級闘争の激化におびえる藩閥官僚勢力は山県有朋以下原に依存し,貴族院の最大会派〈研究会〉は政友会と提携,内閣は貴衆両院に確固たる地盤をもつかつてない強力な存在となった。しかし力の政治にひそむ腐敗は,満鉄事件,アヘン事件など政友会関係者の疑獄事件になってあらわれ,前内閣以来のシベリア出兵も尼港事件で破綻を示し,民心は去った。ワシントン会議と戦後不況に直面して政策転換を模索中,1921年11月4日,政友会京都支部大会出席のため東京駅改札口(南口)にさしかかったとき,大塚駅員中岡艮一(こんいち)の短刀に刺されて死去した。盛岡市大慈寺に葬られる。第2次大戦後公刊された《原敬日記》(1965-67)は明治・大正政治史の根本史料として著名である。
執筆者:松尾 尊兊
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(山本四郎)
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1856.2.9~1921.11.4
明治・大正期の政党政治家。盛岡藩士(家老職)の次男として盛岡に生まれたが,のち分家して平民となる。司法省法学校退学後,郵便報知新聞社をへて1882年(明治15)外務省に入省。陸奥宗光の知遇を得て農商務省・外務省の要職を歴任し,外務次官をへて駐朝鮮日本公使。98年官界を辞して大阪毎日新聞社社長となる。1900年立憲政友会結成に参加,同年幹事長,第4次伊藤内閣の逓信相になる。02年衆議院議員に当選し,以後連続8回当選。総裁西園寺公望(きんもち)を補佐し桂太郎との提携を推進,積極政策を掲げて政友会の勢力拡大を実現した。14年(大正3)政友会総裁に就任。18年内閣を組織し平民宰相とよばれたが,多数による力の政治や利益誘導政治に対する批判も強く,東京駅で暗殺された。「原敬日記」全6巻が出版されている。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
…叔父伊達兵部少輔宗勝,庶兄田村右京宗良がそれぞれ3万石を分知され後見となり,幕府国目付の毎年派遣の下に藩政が行われた。奉行奥山大学常辰が当初権勢をふるったが,兵部(宗勝)は63年(寛文3)これを罷免,幕府老中酒井忠清と姻戚関係を結び,奉行原田甲斐や側近出頭人を重用して一門以下の反対勢力を弾圧,斬罪切腹17名を含む120名余を処分した。66年には亀千代毒殺未遂のうわさがたち医師河野道円父子が殺害され,68年にも同様の事件があって兵部らの陰謀とする非難が高まった。…
※「原敬」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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