原宿(読み)はらじゅく

精選版 日本国語大辞典 「原宿」の意味・読み・例文・類語

はらじゅく【原宿】

東京都渋谷区神宮前・千駄ケ谷付近の旧地名。また、JR原宿駅付近一帯の通称。明治時代は華族の屋敷が多かった。駅の西側には明治神宮があり、旧陸軍の代々木練兵場の跡地に国立屋内総合競技場・NHK放送センターなどがある。若者の集まる繁華街として有名。

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デジタル大辞泉 「原宿」の意味・読み・例文・類語

はらじゅく【原宿】

東京都渋谷区の山手線原宿駅周辺の通称。もとは神宮前・千駄ヶ谷に隣接した地名。近年、若者の集まる商業地区として発展。

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日本歴史地名大系 「原宿」の解説

原宿
はらしゆく

[現在地名]沼津市原・原町中はらまちなか大塚おおつか西添町にしぞえちよう

今沢いまざわ村の東に位置し、中世の原中はらなか宿を継承した近世東海道の宿。南は海(駿河湾)に面し、海浜には千本松原せんぼんまつばらの一部をなす松林が連なる。西は一本松いつぽんまつ新田。江戸からは三一里二七町、一三番目の宿場で、一里半東方の沼津宿と三里二二間西方の吉原よしわら宿(現富士市)との間を継送った。近世の宿場は東から順に大塚町・ひがし町・西にし町の三町で構成されていたが、郷村帳類では原町(原宿とも、東町・西町)と大塚町(大塚村とも)の二筆で高付されることが多かった。「修訂駿河国新風土記」に「此宿の北に浮島沼あり。沼のほとりの野原を浮島原と云。古原中の宿とも云ひしか。今は唯、原とばかり云」とあり、原の地名は浮島うきしまヶ原に由来するという。

〔中世〕

中世には阿野あの庄域に含まれ、東海道の宿駅として発達した。弘長二年(一二六二)二月二四日、鎌倉下向途次の奈良西大寺叡尊は「浮島原」を過ぎ、「原中宿」に着いている(関東往還記)。「原中」は浮島ヶ原の中の意とされ、宿の名は他の鎌倉時代の紀行文などにも散見する(「春のみやまち」など)。これらの紀行文によれば、東海道の宿は蒲原かんばら(現蒲原町)見付みつけ今井いまい(現富士市)―原中―車返くるまがえし木瀬川きせがわ―三島と続いていた。なお「源平盛衰記」巻二三(畠山推参附大場降人事)によると、治承四年(一一八〇)一〇月、源氏軍は平家勢を追って足柄あしがら峠を越え、伊豆国府を経て駿河に進んだ。このとき源氏の軍勢は「木瀬川宿、車返、富士の麓野、原中宿」などに二〇万六千余騎が満ち満ちていたという。

天文一七年(一五四八)四月九日には、今川義元から上松四郎兵衛に対し「阿野庄内原駅船壱艘」の「諸役并立使免許」が確認され、「海賊」の時の奉公が命じられている(「今川義元判物写」渡辺文書)。ここから、戦国時代になると当地が宿としてだけでなく湊としても発達し、水上交通の担い手が今川氏の水軍として編成されていたことがわかる。天正期(一五七三―九二)のものと思われる年未詳三月一四日の松平清宗書状写(角屋記録)によれば、伊豆から「原浦」に来た船が「あやまり船」として抑留されている。また天文二二年二月一四日には、駿府の御用商人友野二郎兵衛尉が、今川義元から原での木綿役徴収権を、江尻えじり(現清水市)岡宮おかのみや・沼津とともに安堵されている(「今川義元判物」友野文書)。同二三年九月一〇日には、吉原の矢部孫三郎が、今川氏から「西者蒲原東者阿野境迄」の「立物」(水産物か)の諸役を免許されている(「今川義元判物」矢部文書)

原宿
はらじゆく

[現在地名]八王子市東浅川町・狭間町

川原ノ宿かわらのしゆくに続く地。江戸時代は上椚田かみくぬぎだ村のうちで、甲州道中が通じていた。街道沿いの東側を小名原宿、西寄りを小名はらとよんだ。原宿の下河原しもかわらにわずかな御林があった。東側の街道沿いに続いて小名新地があって民戸が軒を並べ、散田さんだ村に接して小名散田、村の南には小名狭間はざまがあった。高札場が置かれていた。原の鎮守熊野神社は除地八〇歩で、天正元年(一五七三)の勧請と伝える。

原宿
はらじゆく

JR山手線の原宿駅東側地域の通称名。範囲は江戸時代の原宿村から隠田おんでん村一帯の地域に及ぶ。明治半ばから大正期にかけて当地では渋谷川沿いに水車が急増して、精米業が発達した。最初の原宿駅が開業したのが明治三九年(一九〇六)で、イギリス建築様式であるハーフティンバーの現駅舎は、大正一三年(一九二四)約五〇〇メートルほど渋谷寄りに開設された。

原宿
はらじゆく

原市はらいち辺りに比定される。「武蔵史料銘記集」によれば、勝呂すぐろ(現坂戸市赤尾)の林織善が所蔵する金剛界九会曼陀羅種子(現存せず)の奥書に、永禄三年(一五六〇)正月吉日の年紀と「武州上足立於原宿書之畢」などの銘文があった。同一〇年九月晦日安首座(平林寺の僧泰翁宗安)に太田氏資の時のごとく原宿の代官職が安堵された(「北条家印判状」平林寺文書)。同年一二月二三日の北条家検見書出(同文書)によれば、検見の結果、田一町八反一〇〇歩(分銭は反別三〇〇文ずつで計五貫四九〇文)・畠一〇町八反小四〇歩(分銭は反別一六五文ずつで計一七貫八三四文)の計二三貫三二四文となり、ここから神田・堤免井料・代官給・名主免・定使給の二貫八〇〇文を差引いた二〇貫五二四文が当納分とされ、恒岡越後代(安首座)と原宿百姓中に年貢進納が命じられている。

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改訂新版 世界大百科事典 「原宿」の意味・わかりやすい解説

原宿 (はらじゅく)

東京都渋谷区東部の地名。行政上は神宮前および神南(じんなん)の一部にあたるが,範囲ははっきり限定できず,JR山手線原宿駅東側の一帯を漠然と指す。江戸時代初期,この付近を千駄ヶ原と称し,鎌倉街道の宿駅をおいたことから地名が起こったといわれる。江戸時代は武家屋敷や寺院が並び,明治時代は華族の屋敷が多かった。明治神宮創建(1920)とともに表参道が通じ,青山に向かってみごとなケヤキの並木道がつづく。第2次大戦前は日本で最初の本格的な集合住宅同潤会アパートのある通りとしても知られた。戦後はワシントンハイツ代々木公園)のアメリカ軍相手の店が並んだ。高度経済成長期に入ってから青山とともにファッションの町となり,高級マンションや商店,喫茶店が軒をつらねる。若者たち,とくに女子中・高校生向けの店舗が多く,最近は表参道ばかりでなく,裏通りの竹下通りにまで及ぶようになった。休日には若者たちが集まって路上や広場で踊りまわり,現代風俗の展示場として,東京の新名所の一つとなっている。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「原宿」の意味・わかりやすい解説

原宿
はらじゅく

東京都渋谷区の中央部、山手(やまのて)線原宿駅付近をいう。相模(さがみ)国(神奈川県)から奥州へ通じる道の宿(しゅく)駅があったことが地名の由来という。明治神宮に続く代々木公園の地は、第二次世界大戦後アメリカ軍に接収されワシントンハイツとよばれた。その軍人相手の衣料店、土産(みやげ)物店などができたのをきっかけとして、現在はケヤキ並木の表参道を中心に流行の先端をいく店が並び、ファッションの街となった。原宿駅付近の竹下通りやそのわきの小路には、ブティック、アクセサリー店、カフェバーなどが建ち並び、クレープアイスクリームが各種売られ、20歳前の若者でにぎわう。近くにNHK放送センター、代々木競技場がある。

[沢田 清]


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百科事典マイペディア 「原宿」の意味・わかりやすい解説

原宿【はらじゅく】

東京都渋谷区東部,山手線原宿駅付近の町名。高級住宅地で,第2次大戦前は華族の屋敷が多かった。高級マンションや瀟洒(しょうしゃ)な商店街が開け,若者に人気のあるファッションの町。
→関連項目森稔

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「原宿」の意味・わかりやすい解説

原宿
はらじゅく

東京都渋谷区東部,JR原宿駅周辺地区の通称。旧町名。かつて相模国から奥州へ行くための鎌倉街道の宿駅があった。現在は高級住宅地および若者ファッションの発信地として有名。明治神宮の表参道は,美しいケヤキ並木の遊歩道に沿って流行の飲食店やブティックが並び,独特の雰囲気をもち,若者に人気がある。

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世界大百科事典(旧版)内の原宿の言及

【アンドレーエ】より

…17世紀初頭の薔薇(ばら)十字団運動に重要な役割をはたした人物。薔薇十字団の四大著作のうち《世界の普遍的改革》《薔薇十字の伝説》《薔薇十字の信条》の3著の著者ではないまでも共同執筆者の一人であり,幻想小説風の奇書《化学の結婚》(1616)は彼の作品であることがほぼ確実とみられている。…

【オカルティズム】より

… 〈オカルト〉という語は16世紀前半からあらわれはじめたが,オカルト的信仰そのものの起源は古く,エジプトやメソポタミアの占星術,ヘブライのカバラ,古代ギリシアのピタゴラス教にまでさかのぼる。古代の秘密の知は道士たちの集団のなかで儀礼的に伝承されたが,近代オカルティズム運動にあっても,薔薇十字団フリーメーソンのような,秘儀伝授のための結社や分派がおびただしく出現した。オカルティズムはまずルネサンス期に,キリスト教的中世のなかでは表面から隠されていたさまざまな古代の知を総合して再生せしめようとする精神運動のなかにあらわれた。…

【ガイタ】より

…3冊の神秘的な詩集《渡り鳥》(1881),《黒い美神》(1883),《神秘の薔薇(ばら)》(1885)を発表して,オカルティズムの研究と再建に貢献する。はじめE.レビの弟子であったが,のちに独立し,薔薇十字団の革新のために尽くす。この方面の著作には,《神秘の門出に》(1886),《サタンの神殿》(1892)などがある。…

【秘密結社】より

… いずれにせよ大多数の秘密結社は,危機の時代に古い地盤から根こそぎにされた故郷喪失者の層から発生してくる。薔薇十字団は三十年戦争の混乱のなかから出現し,テンプル騎士団は十字軍の退廃に再度秩序をもたらそうとする欲求から生まれた。マウマウ団は白人宣教師や白人植民者によって伝統的生活形態を破壊されたキクユ族の苦悩から,クー・クラックス・クランは南北戦争の敗者たるアメリカ南部から,それぞれ発生する。…

【フラッド】より

…エリザベス朝の高官トマスThomas F.の子として生まれ,オックスフォードのセント・ジョンズ・カレッジに学んだ後,当時最も恵まれた階層が享受しえたヨーロッパ大陸への遍歴旅行を6年にわたって行った。そのおりパラケルスス派の錬金術的医学を学ぶとともに,大陸でようやくきざしはじめた薔薇十字運動(薔薇十字団)に接し,I.ジョーンズ,T.カンピオンらと協力しつつ,以後それをイギリスの文化的伝統として確立することに一生を捧げた。17世紀の科学革命に際しては,汎知学の立場からその還元主義には反対しながらも,W.ハーベーの血液循環論をいち早く支持するなど推進役をも果たしている。…

【フリーメーソン】より

…そもそもイギリスにおける石工は古くから教会や国王の特権的庇護の下にあり,さまざまの世俗的義務を免除されていた。この有力なギルドも中世の崩壊とともに大教会建築の機会が激減したため本来の職業的石工ギルドが解体にしているところへ,大陸渡来の薔薇(ばら)十字団のような秘密結社が再生の理念を接木したのが,18世紀初頭におけるフリーメーソン成立の主たる契機であったと考えられる。いずれにせよ“地上に神の家を造る”教会建築家の同職組合は,このころようやく,〈見えざる天上の家〉としての精神の建築物,すなわちフリーメーソンの構築へと脱皮を迫られていた。…

【ヘルメス思想】より

…とくにルネサンス時代にイタリアで《コルプス・ヘルメティクム》が翻訳刊行されて人々に大きな影響を与え,中でもコペルニクス,W.ギルバート,ケプラーなど近代科学の創始者たちに信奉されて近代科学成立の一つの契機となった。17世紀以後は公然化しなかったが,薔薇(ばら)十字団など秘密結社の中で受け継がれて技術者や芸術家の間に信奉者を見いだし,19世紀以降はロマン主義や象徴主義,シュルレアリスムなど主として文学,芸術において開花した。
[成立]
 ヘルメス思想の伝統の内部では,その教義はヘルメス・トリスメギストスに始まる。…

※「原宿」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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