南阿弥(読み)なあみ

改訂新版 世界大百科事典 「南阿弥」の意味・わかりやすい解説

南阿弥 (なあみ)
生没年:?-1381(弘和1・永徳1)

南北朝末期の遁世(とんせい)者。将軍足利義満に仕え,海老名(えびな)の南阿弥陀仏と呼ばれた。能の愛好者で,連歌をはじめ諸芸能にたんのうであったらしい。《紫野千句(むらさきのせんく)》の作者の一人であり《菟玖波集(つくばしゆう)》にも入集するなど,義満の周辺にあって,その方面では強い影響力を持っていたようである。南阿弥に代表されるような将軍側近の遁世者の活躍が,当時なお田楽に圧倒されがちであった猿楽の能の地位向上と洗練に大きく寄与することとなった。観阿弥・世阿弥父子が京都今熊野で能を興行した際(1374年ころ),初めて猿楽能見物に来臨した義満に観阿弥を推奨し,義満による観阿弥,ひいては猿楽能の後援への道を開いたのは南阿弥である。彼はこの後も観阿弥らにしばしば芸事上の助言を与え,時にはみずから作曲するまでに親炙しんしや)し,猿楽能,田楽の道の者から〈節ノ上手〉と称揚されるほどであったという。すなわち,義満近侍の遁世者琳阿弥(りんあみ)作詞の《東国下りの曲舞》の作曲を担当し,藤若(ふじわか)と名のって義満の愛顧を得ていた幼少の世阿弥にこれを御前で謡わしめて,琳阿弥に対する義満の勘当を解かしめたこと,《地獄の曲舞》を作曲したことなどが知られる(以上,《申楽談儀(さるがくだんぎ)》ほか)。

 この南阿弥をモデルとするのが,御伽草子の《猿源氏草紙》に登場する〈海老名のな阿弥〉である。同書によれば,な阿弥は初め海老名六郎左衛門と名のる関東武士であったが,のちに都に出て遁世し,和歌・連歌の道の達者として大名高家に近侍したとされる。続群書類従本《御的日記》1368年(正平23・応安1)の条に海老名六郎左衛門が見え,《太平記》巻二十九にも海老名六郎が登場するなど,ほぼ同時代にこのな阿弥の前名と似通った人物が複数存在している。南阿弥はおそらく,義満配下の武士として数多くの一族を輩出した海老名氏の出身と思われる。南阿弥の地位は琳阿弥など一般の遁世者よりも高かったようで,世阿弥らから敬意をはらわれているのも,出身のゆえかもしれない。海老名氏は本来は関東武士で,鎌倉公方(くぼう)に仕えた類族のいたことも事実ではあるが,《猿源氏草紙》のいうように,南阿弥が関東出身であったかどうかは定かでない。
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南阿弥 (なんあみ)

南阿弥(なあみ)

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「南阿弥」の解説

南阿弥 なあみ

海老名南阿弥(えびな-なあみ)

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内の南阿弥の言及

【南阿弥】より

…南北朝末期の遁世(とんせい)者。将軍足利義満に仕え,海老名(えびな)の南阿弥陀仏と呼ばれた。能の愛好者で,連歌をはじめ諸芸能にたんのうであったらしい。…

【琳阿弥】より

… 琳阿弥の場合,その多彩な事跡の中で最も注目されるのが,曲舞謡(くせまいうたい)の作詞である。《東国下りの曲舞》《西国下りの曲舞》の両作がそれで,とくに前者は,琳阿弥が一時足利義満の不興をこうむり沈倫していたころに作詞し,南阿弥(なあみ)が作曲して,当時藤若(ふじわか)と称していた少年時代の世阿弥に義満の御前で謡わしめ,ために勘気を解かれたことで有名である。後者はその姉妹作のごときものとして後に書かれた観阿弥作曲の謡で,文体は前者よりさらに優れたものとなっている。…

※「南阿弥」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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