南薫造(読み)みなみくんぞう

日本大百科全書(ニッポニカ) 「南薫造」の意味・わかりやすい解説

南薫造
みなみくんぞう
(1883―1950)

洋画家。広島県生まれ。1907年(明治40)東京美術学校西洋画科を卒業し、同年から10年まで渡欧イギリスでボロー・ジョンソンに師事し、のちフランス、イタリアほかを巡遊帰国の年白馬(はくば)会主催で有島生馬(ありしまいくま)との滞欧記念展が開かれる。明るく温和な画風により文展で二等賞を4回受賞し、16年(大正5)以後文展、帝展の審査員となる。光風会展、日本水彩画会展にも毎年出品し、18年光風会会員となる。29年(昭和4)帝国美術院会員、32年東京美術学校教授、44年帝室技芸員に任命される。代表作は『六月の日』『葡萄(ぶどう)棚』『鶴(つる)渡る』『水辺朝(みずべのあさ)』など。

[小倉忠夫]

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「南薫造」の解説

南薫造 みなみ-くんぞう

1883-1950 明治-昭和時代前期の洋画家。
明治16年7月21日生まれ。イギリスに留学し,明治43年の有島生馬との滞欧記念展で注目された。温和な自然描写特色とし,代表作に「六月の日」。母校東京美術学校(現東京芸大)の教授をつとめた。帝国美術院会員,帝室技芸員。昭和25年1月6日死去。66歳。広島県出身。

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世界大百科事典(旧版)内の南薫造の言及

【印象主義】より

…この傾向は,黒田の弟子の岡田三郎助,和田英作(1874‐1959),湯浅一郎(1868‐1931),中沢弘光(1874‐1964),藤島武二らに受け継がれ,青木繁も,一時印象派風の海浜風景を描いた。明治末年になると,南薫造(みなみくんぞう)(1883‐1950),有島生馬,山下新太郎(1881‐1966)らの新帰朝者たちによってさらに刺激が与えられ,明るい色彩,大きな筆触を特色とする印象派風の外光表現は,日本洋画の確固とした一つの流れとなった。印象主義の運動および理論については,黒田,久米のほか,森鷗外,島村抱月らによって紹介され,1910年には,高村光太郎の〈緑色の太陽〉が《スバル》誌上に発表されて,日本における印象主義宣言といわれた。…

※「南薫造」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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