南新町(読み)みなみしんまち

日本歴史地名大系 「南新町」の解説

南新町
みなみしんまち

[現在地名]高松市南新町・丸亀町まるがめまち田町たまち

城下の中央を丸亀町に続いて南に延びる商人町。南北約二四〇間。東は北から片古馬場かたふるばば町・古馬場町・西瓦にしかわら町・新瓦しんかわら町。西は北から南鍛冶屋みなみかじや町・亀井かめい町。町名の由来は明らかではないが、生駒氏時代屋敷割図では当町北部が丸亀町とされており、南新町はまだ成立していない。松平頼重入部後、町人町が南に延びて新規にできた町という意味で名付けられたものであろう。南新町の地図上の初見は享保年間(一七一六―三六)の城下図である。天明年間(一七八一―八九)の城下図は一―二丁目、天保一五年(一八四四)の城下図は一―三丁目、弘化年間(一八四四―四八)の城下精図は一―六丁目に細分する。

南新町
みなみしんまち

[現在地名]富山市南新町・五番町ごばんまち古鍛冶町ふるかじまち梅沢町うめざわちよう三丁目・辰巳町たつみちよう一―二丁目

古鍛冶町・五番町の南側、両町に並行して東西に延びる両側町で、南はてら町。田地方のうち。寛文六年(一六六六)の御調理富山絵図にみえ、前田利次による町割当初からの町。安永八年(一七七九)の本家数七二・貸家数一一五で、五丁目まであり、ほか南新町散地として本家数五六・貸家数四九があった(「町方旧記抜書」前田家文書)。天保一二年(一八四一)の富山町方旧事調理では竈数一六七、うち寺町庵室一六、男二六二・女三四一のほか、庵室法体男一〇。二丁目と四丁目の南側に出張番所がある。橋三。用心井戸は二丁目清源せいげん寺前と光厳こうごん寺垣際にあった。

南新町
みなみしんまち

[現在地名]宇都宮市花房はなぶさ二―三丁目・新町しんまち一―二丁目

日光街道の宇都宮城下町への南の入口にある町人町で、もとは西原にしはら村の内。元和六年(一六二〇)本多正純による日光街道の付替えにより町並ができ、寛文一〇年(一六七〇)城下町に組入れられ、地子免許となる(宇都宮史)。松平忠弘時代の城下図(東大史料編纂所蔵)に町名がみえ三方は西原村で、南の街道沿いに松並木が続く。寺院が多く地蔵寺・台陽たいよう寺・松眼寺・栄林寺・天祥寺(天正寺)・宗見寺・清久院(盛久院)・龍源寺などがみえる。

南新町
みなみしんまち

[現在地名]田辺市南新町

北新きたしん町の南に位置する。西は足軽屋敷地(通称孫九郎町)、東はみなと村に続く。安藤氏時代に新しく形成された町で、「万代記」の寛文五年(一六六五)条に「南新町丁割、札入有、板屋四十九軒、藁屋四十九軒出来、外ニ後家、やもめ并座頭所所小屋有」、文化三年(一八〇六)の田辺町江川諸事覚帳(田所文書)に「南新町御検地、寛文五巳年五月高弐拾三石六斗八升六合 但屋敷免五ツ成定」とある。当町の成立により従来の新町は北新町を名乗った。

享保一〇年(一七二五)の調べでは、町内の諸職・諸商売人は小質屋一、匠屋指物屋二、鍛冶一、大工七、桶屋四、塗師屋二、左官二、白銀屋一、綿打六、小細工一、屋根屋二、大鋸二、医師一、そのほか扶持人一三、比丘尼二、ごぜ一、神子一、他所奉公人一二、他所稼一、仲使日用二二が住み、借家五軒(「田辺諸事控」多屋家文書)

南新町
みなみしんまち

[現在地名]池田市しん

西にしくち町の北にあり、猪名いな川沿いの新町筋(北方で能勢街道と合流)に沿って開けた町。元禄一〇年(一六九七)池田村絵図(伊居太神社蔵)によると塩屋二・日用一〇・糸引一四・無記載五九で、北に連なる中新町に商工業者が集住しているのに比較すると、職人・商人が少なく町場化が遅れていた。安政四年(一八五七)写の延享三年(一七四六)池田村絵図(池田市教育委員会蔵)には新材木しんざいもく町と記され、町名が変わっている。これは、猪名川を利用して送られてきた竹木が当町辺りで陸揚げされた結果、当初は東本ひがしほん町が竹木市の市立ての特権を有したが、やがて当町でも認められたためとされている。その後、急速に町場化が進んだようである。

南新町
みなみしんまち

[現在地名]高知市桜井さくらい町一―二丁目・宝永ほうえい

田淵たぶちの北側、東西に並行する両側町。新市町しんいちまち筋ともよばれた。西は横堀を挟んで新市町で、横堀には新市橋が架かる。東は下知しもじ村。町の東部横町に、文化年間(一八〇四―一八)帯屋おびや町に移転するまで小者方役所があった(高知市沿革略志)。また西端部北側に幕末まで真言宗金剛こんごう院があった。

南新町
みなみしんまち

[現在地名]函館市元町もとまち青柳町あおやぎちよう

明治五年(一八七二)に成立した町。同年二月、戸籍法の施行に合せて函館市街を三区に区画した際に公認された町々の名が載る達(「御達留」市立函館図書館蔵)に当町の町名はみえないが、「事業報告」(第一編)では地理(函館支庁管内)の項の明治五年の記事に「是歳函館南新町ヲ置ク」とある。町域は上大工かみだいく町二丁目の山手にあたる一帯で、上大工町の通りと並行する三筋の通りが走り、浜手側から山手側へ順に下通・仲通・上通とよばれていた(明治六年函館旧市街図など)

南新町
みなみしんまち

[現在地名]篠山市南新町

篠山城南方の外堀と篠山川の間に置かれた武家地で、南新町の町名は明治五年(一八七二)に公称されたもの。正保笹山城絵図(内閣文庫蔵)には東西に延びる馬場や蔵屋敷がみえる。

南新町
みなみしんまち

[現在地名]長浜市朝日町あさひちよう

南の上田かみた町から続く南北通りが東西通りとぶつかり、東へずれて再び南北通りで北の紺屋こんや町へ続く。東西通りの両側町。西は下船しもふな町。朱印地。慶安四年(一六五一)検地帳(川崎文書)に屋敷地二〇があげられる。元禄八年大洞弁天寄進帳では家数一五(借家一)、男三五・女三二で、町代が置かれ、医者・船物・かせや・猿屋・油屋がいた。

南新町
みなみじんまち

[現在地名]四日市市中部ちゆうぶ

北は中新なかじん町、西は上新かみじん町、東は四ッ屋よつや町。明和五年(一七六八)の四日市町絵図(四日市市立図書館井島文庫蔵)では、この辺りには本田畑が広がり、まだ町名の記載はない。江戸時代後半、四日市町の発展により町となったが、成立時期は不明。文化六年(一八〇九)の五人組帳(同文庫蔵)では三組、一六戸を数える。

南新町
みなみしんまち

[現在地名]奈良市南新町

南魚屋みなみうおや町の南に所在。「奈良曝」に「町役廿九軒」とみえる。「奈良坊目拙解」によれば慶長年間(一五九六―一六一五)以後城戸じようど村のうちに民家が建ちしん町と号し、魚屋新町の南にあるので南新町となった。

南新町
みなみしんまち

[現在地名]米沢市御廟ごびよう二丁目・矢来やらい二丁目

矢来町の南、ほぼ東西の道の両側の下級家臣屋敷町。南外れに館山口たてやまぐち町にあった信光しんこう寺の下屋敷があった(文化八年城下絵図)。享保一〇年(一七二五)の城下書上によれば町の長さ四町一二間・道幅二間・屋敷数六三。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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