南島(南西諸島地域)(読み)なんとう

日本大百科全書(ニッポニカ) 「南島(南西諸島地域)」の意味・わかりやすい解説

南島(南西諸島地域)
なんとう

南西諸島地域をさす古代の呼称。おもに『続日本紀(しょくにほんぎ)』で用いられた。南西諸島全域を律令(りつりょう)国家に組み入れようとする朝廷の施策に伴って登場する語で、初見は、692年(持統天皇6)に朝廷の使者8人が、武器を持って南島に国求めに行く記事である。これは、従来交渉のあった多禰(たね)(種子島(たねがしま))、掖玖(やく)(屋久(やく)島)、阿麻弥(あまみ)(奄美(あまみ)大島)を越えて、さらに南西の島の住民まで版図に収める朝廷の最初の試みで、699年には度感(徳之島)が、714年には信覚(石垣島)と球美(久米(くめ)島、一説に西表(いりおもて)島)が新たに入朝し、「大宝(たいほう)律令」成立(701)前後には、ほぼ南島全域に朝廷の支配が及んだ。720年には232人、727年には132人と、南島人に大量の授位が行われ、その後、南島人のことが記されていないのは、これで南島経営が一段落したことを示すものであろう。この数字は、南島各地の支配階層の人の数を思わせる。種子島などが国に準ずる行政単位になったほかは、遠隔のため、これらの支配階層による自治に任されたのであろう。「大宝令」の注釈書『古記』(738ころ)には、「辺遠国」として、九州南部の隼人(はやと)とともに阿麻弥人をあげており、律令制度の下では、南島は租税手心を加えることができる辺境の特別地域であった。こうした南島経営の進捗(しんちょく)とともに、遣唐使の航路も整備された。735年(天平7)には使者を南島に遣わし、札を立て、島名、船の停泊地、水のある所、国(本土)への往来行程などを明示し、754年には、それを補修することを命じている。中国の僧鑑真(がんじん)が便乗した753年の遣唐使の帰国船はこの南島路をとっており、そのときのことを記した『唐大和上東征伝』にみえる「阿児奈波嶋(あこなはじま)」(沖縄島)などの島名や方位が詳しいのも、その札によるものであろう。「南島」の称は、平安初期の『日本決釈(にほんけつじゃく)』や『延喜式(えんぎしき)』(927)にも使われているが、その後は公式には用いられていない。遣唐使の廃止、律令制の崩壊に伴い、朝廷の南島統治が後退したためであろう。

[小島瓔

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

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