千種忠顕(読み)ちくさただあき

精選版 日本国語大辞典 「千種忠顕」の意味・読み・例文・類語

ちくさ‐ただあき【千種忠顕】

鎌倉末期の武将元弘の変で捕えられ、後醍醐天皇とともに隠岐へ流された。隠岐脱出後、天皇を伯耆船上山に移し、兵を率いて足利尊氏らと六波羅探題を攻め落した。建武中興勢力をふるったが、のち、離反した尊氏と戦い西坂本戦死建武三=延元元年(一三三六)没。

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デジタル大辞泉 「千種忠顕」の意味・読み・例文・類語

ちくさ‐ただあき【千種忠顕】

[?~1336]鎌倉末期の廷臣。元弘の変で捕らえられ、後醍醐天皇とともに隠岐おきに配流。のち、隠岐を脱出して、足利尊氏あしかがたかうじらと六波羅攻めに参加。尊氏の離反後、足利直義と戦って敗死。

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朝日日本歴史人物事典 「千種忠顕」の解説

千種忠顕

没年:建武3/延元1.6.7(1336.7.15)
生年:生年不詳
鎌倉末・南北朝期の公卿。父は六条有忠。忠顕の代になり千種氏(千種は伊勢の地名)を称し,忠顕が伊勢千種氏の祖となる。後醍醐天皇の廷臣で,「三木一草」のひとりとして知られる。蔵人頭,左近衛中将,弾正大弼,丹波守などを歴任し,参議となる。後醍醐天皇の信任が厚く,元弘の乱(1331)に際しては天皇に従い笠置山に立て籠もって忠勤した。しかし,笠置落城後は佐々木(京極)高氏のもとに拘禁される。正慶1/元弘2(1332)年天皇は隠岐島へ流罪となり,忠顕もこれに従った。翌年,天皇は隠岐島を脱出,名和長年に奉ぜられ,伯耆(鳥取)船上山を本拠とした。同年,官軍の六波羅攻撃が開始されると,忠顕も勅命を受け兵を率いて赤松則村,足利尊氏らと共に攻撃に加わり,天皇入京に際しては,千余騎を率いて供奉する。建武の新政が開始されると,雑訴決断所の寄人となり,また丹波国など3カ国の知行国主になるなど,その栄達はめざましかった。建武3/延元1(1336)年,万里小路宣房と共に出家。だが同年,足利尊氏の離反によって建武政権が崩壊すると,比叡山に逃れた天皇を守り転戦したが,近江国(滋賀県)西坂本で足利直義軍と戦い戦死した。<参考文献>『村田正志著作集』7巻

(小森正明)

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改訂新版 世界大百科事典 「千種忠顕」の意味・わかりやすい解説

千種忠顕 (ちぐさただあき)
生没年:?-1336(延元1・建武3)

南北朝期の公家。久我(こが)家の出で後醍醐天皇の側近として仕え,元弘の乱には天皇の隠岐配流にも同行した。建武政権では従三位,弾正大弼,参議のほか,3ヵ国の国司にも任ぜられて大いに威勢を振るった。建武政権が瓦解するや,足利尊氏と戦って一度は敗走させたが,1336年足利直義の軍と西坂本で戦い討死した。
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百科事典マイペディア 「千種忠顕」の意味・わかりやすい解説

千種忠顕【ちくさただあき】

南北朝期の公家。父は六条有忠。後醍醐(ごだいご)天皇に近侍し,後醍醐の隠岐配流にも随行した。建武政権では従三位,弾正大弼(だんじょうのだいひつ),参議のほか,3ヵ国の国司にも任ぜられるなど勢威をふるい,三木一草(さんぼくいっそう)のひとりに数えられた。1335年足利尊氏を破って西走させたが,翌年近江西坂本で足利直義(ただよし)軍に敗れ,戦死。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「千種忠顕」の解説

千種忠顕
ちぐさただあき

?~1336.6.7

鎌倉末~南北朝初期の公家・武将。村上源氏六条有忠の子。学問を好まず武芸や博打(ばくち)にふけったため父から勘当されたという。後醍醐天皇の近臣として討幕計画に加わり,1331年(元弘元)隠岐に流された天皇に従った。33年天皇とともに隠岐を脱出,山陰の兵を率いて赤松則村・足利尊氏らと六波羅探題を攻略。建武政権では参議に昇進,丹波守を兼ね,雑訴決断所の寄人に列した。その栄達ぶりから三木一草(さんぼくいっそう)の1人に数えられる。36年(建武3・延元元)出家。同年尊氏が九州から上洛すると,後醍醐天皇に従って比叡山にのがれたが,まもなく西坂本で足利直義(ただよし)軍と戦い戦死。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「千種忠顕」の意味・わかりやすい解説

千種忠顕
ちぐさただあき

[生]?
[没]延元1=建武3(1336).6.5. 西坂本
南北朝時代の武将。建武政権の参議左中将。元弘2=正慶1 (1332) 年後醍醐天皇の隠岐配流に従った。翌年天皇とともに伯耆へ脱出,赤松則村,足利尊氏らとともに六波羅を攻め滅ぼした。その功により従三位,参議左中将となり,知行国3国を与えられ,雑訴決断所寄人に任じられた。建武2 (35) 年尊氏が建武政権に謀反を起すと,名和長年とともに尊氏を西走させた。延元1=建武3 (36) 年6月西坂本の松尾口で戦死。 (→建武中興 )

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「千種忠顕」の解説

千種忠顕 ちぐさ-ただあき

?-1336 鎌倉-南北朝時代の公卿(くぎょう)。
六条有忠(ありただ)の子。伊勢千種氏の祖。元弘(げんこう)の乱で隠岐(おき)に流された後醍醐(ごだいご)天皇にしたがう。正慶(しょうきょう)2=元弘3年足利尊氏らと六波羅(ろくはら)を攻める。建武(けんむ)政権では従三位,参議として雑訴決断所寄人(よりゅうど)などをつとめる。建武3=延元元年足利直義(ただよし)軍と近江(おうみ)(滋賀県)でたたかい6月7日死去。

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旺文社日本史事典 三訂版 「千種忠顕」の解説

千種忠顕
ちぐさただあき

?〜1336
南北朝時代の武将・公家
後醍醐 (ごだいご) 天皇に近侍し,1331年元弘の変で幕府に捕らえられ,天皇に従って隠岐 (おき) に移り,'33年天皇の隠岐脱出に尽力。赤松則村・足利尊氏らとともに六波羅探題を攻め京都を回復した。建武新政府では雑訴決断所の寄人 (よりゆうど) となる。'35年名和長年らとともに,謀反した尊氏を西走させたが,翌 '36年比叡山に迫る足利直義 (ただよし) 軍と戦って敗死した。

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世界大百科事典(旧版)内の千種忠顕の言及

【三木一草】より

…後醍醐天皇の建武政権で重用されはぶりのよかった4人の総称。楠木正成名和長年,結城親光,千種(ちぐさ)忠顕のこと。楠木・結城は姓に,名和は伯耆守で官名に〈キ〉がつき,それに千種の〈クサ〉をとって〈三木一草〉としゃれていったもの。…

※「千種忠顕」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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