北海道開拓(読み)ほっかいどうかいたく

日本大百科全書(ニッポニカ) 「北海道開拓」の意味・わかりやすい解説

北海道開拓
ほっかいどうかいたく

近世まで先住のアイヌと少数の和人(わじん)を除けばほとんど未開拓の地であった北海道に、明治初期から大正期にかけて、政府や本州資本が巨額の財政投資を行い、本州から多数の移住民を送り込むとともに、主として内陸部の農林業を中心とする開発を強力に行った現象をさす。

[桑原真人]

開拓使時代

近世まで蝦夷(えぞ)地とよばれた北海道は、松前(まつまえ)藩や徳川幕府の手で漁業を中心とする開拓が一定程度進められていたが、明治維新とともに中絶された。

 維新変革のなかから誕生した明治政府は、北方問題に明るい有識者の建議などで蝦夷地問題の重要性を認識し、1868年(慶応4)4月、蝦夷地の地方行政を担当しかつ「蝦夷開拓ノ事ヲ兼知」する機関として箱館(はこだて)裁判所を設置した。同閏(うるう)4月、裁判所は箱館府と改称されたが、まもなく勃発(ぼっぱつ)した箱館戦争のためその開拓事業は中断した。戦争終了後の1869年(明治2)7月、政府は官制改革を実施し、蝦夷地開拓の専掌機関として「諸省卿(しょしょうけい)同等」の長官をいただく開拓使を設置し、旧佐賀藩主の鍋島直正(なべしまなおまさ)が初代長官に就任した。同8月には蝦夷地を北海道と改称し、11か国86郡を置いた。

 当初、開拓使は、直轄地以外の経営を水戸・佐賀などの諸藩や東京府、兵部(ひょうぶ)省などに割り当てる分領開拓の方式を採用したが、全道の統一的開拓が困難なため、1871年8月までにすべて開拓使の直轄となった。なお、樺太(からふと)と改称された北蝦夷地には、ロシアとの関係が緊迫化したため、1870年2月、開拓使の管轄から外れて樺太開拓使が置かれ、開拓次官黒田清隆(くろだきよたか)がその専務となったが、翌1871年8月開拓使に併合された。開拓次官の黒田は、就任直後に道内および樺太を巡視し、1870年10月、樺太の放棄と西洋技術の導入を骨子とした北海道の開拓に関する建議を行った。

 これを受けて政府は、1871年8月、1872年より10年間に1000万円の財政投資を行い、北海道の開拓を実施するという、開拓使十年計画を決定した(実際の支出額は、計画の約2倍の2082万円)。このため、同年開拓使顧問としてアメリカ農務省長官ホーレス・ケプロンが、翌1872年にはその部下としてB・S・ライマンが、また1876年にはW・S・クラークが招かれるなど多くのアメリカ人お雇い外国人が招聘(しょうへい)された。

 こうした外国人技術者の指導の下に、開拓使は道路建設、河川港湾の修築、幌内鉄道(ぽろないてつどう)などの交通機関の整備、といった開拓の基礎事業に着手した。また産業の基本たる農業は、在来農業が欠如しているため、外来品種と欧米農法を積極的に導入しようとした。このほか、幌内炭鉱の開発や各種官営工場の設置もなされた。さらに、士族を中心とした移民の招来と保護、対外防備を目的とする屯田兵(とんでんへい)制度、開拓の人材養成を目的とする札幌農学校の設置なども実施された。この十年計画終了直前の1881年には開拓使官有物払下げ事件が発生し、払下げ計画は中止された。

[桑原真人 2018年9月19日]

3県・道庁時代

1882年2月、開拓使は廃止されて新たに函館(はこだて)、札幌、根室(ねむろ)の3県が置かれ、1883年1月には、旧開拓使の官営事業を所管する農商務省北海道事業管理局も置かれた。しかし、3県と管理局の拮抗(きっこう)はかえって開拓の進展を阻害する結果となり、1885年に3県下の北海道を巡視した金子堅太郎(けんたろう)の指摘もあって、翌1886年1月、3県は廃止されて北海道庁が設置された。

 初代長官に就任した岩村通俊(みちとし)は、今後は「貧民ヲ植エズシテ富民ヲ植エン」ことを主張し、従来の移民政策に典型的な直接保護政策を廃止して間接保護政策に転換し、積極的な資本家招来政策を推進した。まず、土地制度を改め、10万坪以上の大地積処分を可能とする北海道土地払下規則を制定するとともに、移住民の入植適地を調査する殖民地選定事業が実施された。また、開拓使以来の官営工場も相次いで民間に払い下げられ、とりわけ幌内炭鉱と幌内鉄道は、北海道炭礦(たんこう)鉄道会社にきわめて安い価額で払い下げられた。さらに岩村長官は、内陸の上川(かみかわ)地方の開発にも着手したが、そのための道路開削には、樺戸集治監(かばとしゅうちかん)などの囚人労働が多数使役された。

 この結果、明治20年代以降、北海道移民が大量に流入したこともあって、北海道の開拓は急速に進んだ。1897年には土地払下規則にかわって、新たに北海道国有未開地処分法が公布されたが、これによって大地積の処分を受けた者は、本州の華族・官僚・地主などが大半を占め、これら不在地主による寄生地主制が道内で広範に成立する契機となった。明治30年代に入ると北海道の産業構造は大きく変貌(へんぼう)し、その中心は水産業から農業に移行した。

[桑原真人]

第一期拓殖計画

そこで、北海道の開拓をよりいっそう促進するため、北海道庁によってさまざまの拓殖計画が立案された。まず1901年(明治34)からは、園田安賢(やすかた)長官の下で国費3300万円の北海道十年計画が発足したが、日露戦争による経費節減の影響を受け、その実績は当初計画の50%弱にとどまった。後任の河島醇(じゅん)長官は、この計画を1年早く打ち切り、1910年より15年間に総額7000万円の国費を投入して河川・港湾の修築、道路・橋梁(きょうりょう)の建設など土木関係を中心に拓殖上緊要な事業を実施しようとした。これが北海道第一期拓殖計画とよばれるもので、実際には2年延長して1926年(大正15)まで実施され、その総支出額も1億5871万円に達した。

 これにより、計画開始時の人口161万0545人、耕地面積53万8034町歩、鉄道営業距離724.3マイル(1165.6キロメートル)は、終了時点でそれぞれ243万7110人、78万4269町歩、1736.2マイル(2794.1キロメートル)に増加した。とりわけ農業生産の発展は著しく、空知(そらち)・上川地方では米作が、道東の十勝(とかち)・網走(あばしり)地方では畑作が定着した。この間、地方自治や参政権など行政上でのさまざまの差別的取扱いもしだいに解消され、1918年(大正7)には「開道五十年」を迎えたが、これは北海道が開拓地から脱して準「内地」化したことを示すものであった。

 しかし、他方で小作地率もしだいに上昇し、1925年には50%を超えた。このため、1920年には道内で最初の小作争議が神楽(かぐら)村御料地で発生し、雨竜(うりゅう)村の蜂須賀(はちすか)農場などにも波及、1922年には狩太(かりぶと)村の有島(ありしま)農場が解放されるなど、小作争議の発生も活発化していった。

[桑原真人]

第二期拓殖計画

この第一期拓殖計画終了間近より、当時の過剰人口や食糧自給問題を北海道で解決しようとの気運が高まり、1927年(昭和2)からは、1946年までの20年間に9億6337万余円を投じて農耕適地158万町歩の墾成、牛馬百万頭計画、総人口600万人の達成を目的とする、北海道第二期拓殖計画が発足した。この計画は、その直後の世界恐慌や相次ぐ凶作で予算の多くが経済更生などに使用され、あるいは日中戦争の勃発(ぼっぱつ)と太平洋戦争への拡大といった過程を経るなかでその目的変更を余儀なくされ、計画終了の1946年、耕地は72万2200町で、発足時よりも減少し、牛馬は37万7511頭で目標の約38%、人口も348万8013人で、目標の58%を達成したにすぎなかった。

[桑原真人]

第二次世界大戦後の開発

1945年(昭和20)の敗戦によって、日本はすべての植民地を喪失したが、それとともに、海外引揚者などの受入先として未利用地の多い北海道がふたたび注目された。とりあえず戦災者や軍人などの失業者を対象に戦後の緊急開拓事業に着手した政府は、1950年に北海道開発法を公布し、同時に北海道開発庁を設けた。翌1951年、その出先実施機関として北海道開発局が設置された。この結果、開発実施機構が開発局と北海道とに分割され、開発行政と地方自治行政とを対立させる一因となった。その背景には、北海道の開発行政を革新系の田中道政から分離し、道知事の実質的権限を削減しようとする政治的意図があったといわれる。

 そして、第一期北海道総合開発の第一次五か年計画が1952年より1956年まで、第二次五か年計画が1958年より1962年まで実施され、それぞれ777億円、1932億円の開発事業費が投入され、電力・交通・食糧基盤の整備や産業振興が計られた。その成果はかならずしも明確ではなく、1957年4月、北大教授中谷宇吉郎(なかやうきちろう)は、第一次計画をさして「北海道開発に消えた800億円」と称する論文を雑誌に発表し、大きな反響をよんだ。

 その後、1963年からは八か年計画の第二期北海道総合開発計画が、1971年からは十か年計画の第三期北海道総合開発計画が策定、実施された。しかし、1973年の石油危機でその修正を迫られた結果、1977年、新たに十か年の北海道発展計画が作成され、翌1978年より実施された。その後北海道開発庁は、2001年(平成13)1月の中央省庁再編により建設省などとともに再編統合され国土交通省となった。同省の内部部局である北海道局は、北海道開発庁が規模を縮小して格下げとなったものだが、北海道開拓使が置かれて百有余年、21世紀になってようやく地方分権が確立し、北海道庁の自立が始まる、という見方もある。

[桑原真人]

『高倉新一郎著『北海道拓殖史』覆刻版(1979・北海道大学図書刊行会)』『『新北海道史』第3~6巻(1971~1977・北海道)』『桑原真人著『近代北海道史研究序説』(1982・北海道大学図書刊行会)』


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改訂新版 世界大百科事典 「北海道開拓」の意味・わかりやすい解説

北海道開拓 (ほっかいどうかいたく)

おもに明治維新前後から大正期にかけて人口が大量に北海道に流入し,北海道に農耕地を拡大するとともに,鉱・水・林産資源を開発した社会現象を指す。明治維新までの北海道では,和人の定住地はほとんど道南の和人地(およそ箱(函)館近傍から熊石を結ぶ地帯を指す)に限られ,それ以外の蝦夷地には海岸線と内陸の河川に沿ったアイヌの集落と和人商人の経営する漁場(ぎよば)を見るだけであった。開拓の先駆的な試みとしては,箱館開港以後に幕府の試みた直営農場や農民移植の事業があったが,小規模なものにとどまった。明治維新前後の北海道人口は,アイヌが2万人前後,和人が10万人前後と推定される。明治維新以後,北海道の開拓は急速に進んだ。蝦夷地が北海道と改称された1869年から半世紀ののち,1920年には人口236万に達し,田畑計83万9000町歩を有するにいたった。これは北海道の農耕可能地の大半をすでに開拓し終わったことを意味した。この間に石炭を中心とする鉱産資源の開発や林産資源の開発も進んだ。北海道の諸産業の発達と人口の増加はその後もゆるやかに進み,1989年には人口564万余りに達しているが,北海道開拓の主要な時期は,やはり明治維新以後の約半世紀とみてよい。人口のこのような急激な社会的移動は,同じ時期における農村から都市への人口移動がみられるだけであり,世界的にみても農業開拓の成功例の一つに数えられる。以下,開拓の動機,手段,特徴などについて述べる。

 本州と異なる北海道の厳しい自然条件と封建社会の消極的固着的な体制からして,近世の蝦夷地にほとんど開拓の手が加えられなかったのはむしろ当然であった。寛政期(1789-1801)以降幕府が2度にわたって蝦夷地を直轄し,開拓の端緒的な試みを行ったのは,北方ロシアの勢力に対する警戒と箱館開港による国際的影響への対処であった。このような対外的な動機は明治維新直後の時期まで,とくに樺太をめぐる日本とロシアの紛争とともに持続した。北方警備の必要が北海道開拓を促進していたことは,初期の屯田兵配置にもあらわれている。しかし,北海道開拓のもっとも主要な動機は,日本近代化のための富源の獲得と開発にあった。北方に第2の小日本をつくり出すというような,多少過大な期待もかけられていたのであり,このことが,北海道開拓の基本的なパターンを決定した。さらにもう一つの機能として,近代化の社会変動の中で,農村から流出する人口を吸引し収容するという役割が,19世紀末以降の四半世紀にとくに著しかった。このことが北海道の移住植民地,農業植民地としての性格を強めた。

 北海道開拓の特徴としては,それを政府がリードする国家主導型で進められた点,北方の自然条件を克服し各種の資源を開発するために欧米の技術を輸入活用した点,しかしその本格的な推進力となったのは在来技術をもつ移住農民と勃興する日本資本主義だった点などである。開拓使(1869-82)と北海道庁(1886-1947)は中心的な開拓官庁であり,開拓使の10年計画(1872-81)や北海道庁の北海道10年計画(1901-09),第1期拓殖計画(1910-26),第2期拓殖計画(1927-46)などは,国の継続的な財政支出のもとに開拓のための基礎的な諸事業を推進しようとしたものである。その中には札幌農学校(のちの北海道帝国大学)や農事試験場,工業試験場などの教育・試験研究機関の設置や,道路・鉄道・港湾・河川の整備,植民地の選定・区画など移住の便宜供与や未開地払下げの促進,工場の官営および払下げと資本誘致のための利益保証などの諸事業が含まれていた。開拓の初期には官営移民である屯田兵や囚人労働力の利用,鉄道・鉱山・工場の官営など,政府の直営ないし直接保護による開拓の傾向が強かったが,全般的には開拓の基礎条件の整備に重点をおく間接的な保護政策が基調となった。第2の特徴としてあげた欧米技術の導入のもっとも顕著なものは,ケプロン顧問団の招聘(しようへい)にみられるアメリカの技術および開拓方式の導入であり,事実,プラウの使用や酪農・畜産の導入,作物・果樹・牧草などの新品種の輸入など,大きな影響を今日に残しているが,北海道の農業開拓はむしろ,米作の北上といった在来農法の発展のうえに開かれた面が少なくなかった。自由な土地取得と大農経営による開拓という方式は実現せず,土地生産力の較差を考えれば内地農村と大差ない小規模農業と,開拓投資者という性格を含めた大地主の支配下の小作制とが現実化した。外来技術および農法の影響といっても,それは限局されたものであり,基本的には日本農業および日本の社会組織の一般的な特質に規定されたのである。

 第2次大戦後の北海道は,諸資源の総合開発の対象として見直され,1947年に発足した自治体としての北海道と50年に新設された北海道開発庁がその事業にあたることになった。
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出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

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