北欧史(読み)ほくおうし

日本大百科全書(ニッポニカ) 「北欧史」の意味・わかりやすい解説

北欧史
ほくおうし

北欧史の特色

本稿でいう北欧あるいは北ヨーロッパとは、歴史・文化・社会に多くの共通点をもつデンマーク、フィンランドアイスランド、ノルウェー、スウェーデンの5か国をさす。欧米でいうスカンジナビア、あるいは北欧で自身をさして用いられている「ノーアン」(デンマーク語)または「ヌーデン」(スウェーデン語)がこれにあたる。このように限定された北欧の地には、他のヨーロッパ地域とは異なった特徴をもつ歴史が展開されてきた。それは、大胆にいえば、北欧がヨーロッパ大陸から相対的に隔絶された地位にあったことから生じたものである。地理的な隔絶の結果、ヨーロッパ大陸の新しい思潮や技術はすぐには北欧に流れ込まず、北欧をしばしば後発的な状態に置いたが、反面そうした時間的なずれのゆえに、北欧はかえって、より新しい時代の条件に適合できるという有利さも享受してきた。著名なバイキングの活動は、ヨーロッパ大陸からの隔絶がもたらす落差に対する反作用ともみることができるし、北欧でヨーロッパ大陸にみられるような封建制の成熟がなかったことは、明らかに北欧の近代的発展を容易にしており、またまさに後発性のゆえに、19世紀末期に盛んになった国際貿易の波にのり、ヨーロッパ大陸の紛争の中心から離れていることによって工業化を順調に進め、福祉国家建設の前提条件をつくりだすことができた。このようにして、北欧は、ハンガリーの経済史家ベレンドBerend Tibor Iván(1930― )およびラーンキRánki György(1930―1988)が指摘するように、19世紀なかばには、東欧や南欧と並んで、先進的な西欧を半月形に囲む後発的ヨーロッパの部分をなしていたが、1920年代には西欧なみの経済発展水準に達していたのであった。

 このほかに、北欧史に顕著に現れる現象として、北欧諸国間の親近性が、あるいは16~17世紀にみるような骨肉の相互抗争を生み、あるいは連帯をつくりだしてきたこと、さらには、独裁者の出現がまれな北欧社会の平等志向や個人主義、内戦よりは妥協に傾く北欧人の実用主義的思考などをあげることができる。しかし、これらを北欧人の「民族性」などとして絶対化することは危険である。

[百瀬 宏]

先史および中世

先史時代

スカンジナビア半島に人間が住んでいた痕跡(こんせき)は、紀元前8000年ごろから存在するが、北欧の地に住む人々の生活の痕跡に牧畜、農耕がうかがわれるようになるのは、前3000年以後である。それらの先住者は、サーミ人と同系統だったのではないかという推測もある。前2000年ころになると、船形をした闘斧をもち、馬を伴った好戦的な移住民が現れた。彼らは、おそらく中部ヨーロッパ方面からやってきたインド・ヨーロッパ語族であったと考えられている。ついで前1500~前500年には青銅器時代が訪れるが、このころ刻まれた岩壁画には、当時すでに北欧人が航海術にたけていたことを示す図柄が含まれている。その後、北欧の気候はかなり寒冷化し、住民の生活も苦しいものとなったが、このころになるとケルト人文化の影響のもとに北欧は鉄器時代に入った。ついで西暦紀元ころからは気候もやや温暖となり、人口も増え始め、ローマ帝国の北西辺境との接触が始まった。ただしローマ帝国側には、民族大移動の時期になっても北欧の実態を伝える史料はほとんどなく、ただ諸部族間に抗争が行われていたことが推測されるにすぎない。彼らの子孫が現在のノルド系の北欧人(アイスランド人、デンマーク人、ノルウェー人、スウェーデン人)である。そのほかフィンランド人の祖先は、諸説あるが、紀元前に数百年をかけて、バルト海南岸から現在のフィンランド領の南部へ移住したものと考えられている。

[百瀬 宏]

バイキングの時代

9世紀から11世紀初めにかけて、ノルド系の北欧人は海外進出に転じ、いわゆるバイキング(ビーキング)の活動を開始した。その理由については、人口過剰、冒険欲、尚武の気風、航海術にたけていたこと、南へのあこがれ、文明世界との交易の欲求など諸説がある。バイキングに乗り出した北欧人は、ヘブリディーズ諸島を手に入れ、アイルランドにダブリン市を建設し、イングランドの北西部に入り込み、また大西洋を渡ってフェロー諸島に移住し、アイスランドに定着した。さらに「赤毛のエーリック」に率いられた一団はグリーンランドに到着し、その息子はまた1000年ごろアメリカ大陸にまで至っている。また、東へ向かったバイキングは、ロシアの建国に参加し、ビザンティン帝国と交易し、イラン北東部にまで入っている。

 こうしたなかでも、デンマーク人のバイキング活動は、フランク王国の勢力伸張による南からの脅威に対する防衛的反応という特徴をもち、またきわめて組織的であった。

 バイキング時代の北欧人の思想や生活は、『エッダ』や『サガ』のなかに姿をとどめている。北欧神話の戦う英雄たちの物語は、当時のノルド系北欧人の世界観の反映にほかならない。バイキング時代のノルド人の社会は、主として王、ヤール(貴族)、自由民、奴隷からなっていた。自由民はすなわち農民であったが、各地域のティング(集会)に出席し、その代表者が地方自治組織ラーグティングを形成した。ヤールは本来は地方的な指導者で、バイキング遠征の指揮者を務め、彼らの相互抗争や選出によって王となる者が出た。こうしたノルド人の社会は、バイキングによる外界との交流を通じてしだいに変貌(へんぼう)した。奴隷労働の使用と相まって、バイキング船の建造技術を利用した鉄製鋤(すき)の使用、ダーネローなどの外地から学んだ農法の改良などによって商業活動が盛んになり、ヘズビューやビルカといった町も誕生している。

 バイキング時代の外部勢力との戦いや北欧内部の抗争に助長されて、北欧諸国の原型もようやく姿を現してきた。とりわけ、南方からの脅威に直接さらされていたデンマーク人は、国家形成の点で他に先んじており、9世紀末に族長間の抗争が続いたすえ、ゴーム老王Gorm den Gamle(950ころ没、在位?~940ころ)、ハラール青歯王(在位?~985)、スベン双鬚(そうしゅ)王(在位985ころ~1014)という強力な王が続き(イェリング王朝)、デンマークは領土を拡大した。スベンの息子クヌード(クヌーズ)は、イギリス、デンマーク、ノルウェーの王となり、1030年に北海にまたがる帝国を築いた。

[百瀬 宏]

北欧三王国の確立

北欧史のうえに華々しい事績を残したバイキングの活躍も、バルト海がヨーロッパの主要な通商ルートから外れたことなどにより、11世紀前半に急速に幕を閉じた。北欧の地では、クヌード大王の北海帝国崩壊後の3世紀間にデンマーク、ノルウェー、スウェーデンの3王国が、内紛と相互抗争のうちに国家としての存在を確立していった。バイキングの海外移住地で北欧人の心をとらえたキリスト教は、北欧の地そのものにも広まり、まだひ弱かった王権の基盤固めに貢献した。デンマークは、内乱とドイツ人皇帝および騎士の干渉のなかからバルデマー1世(在位1157~1182)が秩序を再建、スリースウィ(ドイツ語名シュレスウィヒ)に煉瓦(れんが)造りの要塞(ようさい)ダーネビアケを築き、ついでバルデマー2世(勝利王、在位1202~1241)が攻勢に転じて北ドイツを占領し、またバルト海を渡ってエストニアをデンマーク領とするなど、南部国境をめぐるドイツ勢との攻防に明け暮れた。この間、政治家(大司教)アブサロンがコペンハーゲンを交易市として発達させるなど業績を残した。ノルウェーでは、ハラール3世Harald Ⅲ(1016―1066、在位1046~1066)の治政下にオスロの原型が生まれ、ベルゲンが乾魚の輸出で北欧最大の都市に成長し、その後続いた内戦にホーコン4世Håkon Ⅳ(1204―1263、在位1217~1263)が終止符を打つ一方で、アイスランドとグリーンランドをノルウェー王国の領土に加え、その息子マグヌス6世Magnus Ⅵ(1238―1280、在位1263~1280)が法典編纂(へんさん)のうえで足跡を残した。スウェーデンでは、諸勢力間の抗争が続いたのち、行政能力にたけた上級貴族集団がしだいに形成され、1250年に開かれたフォルクング朝の2代目の王マグヌス・ラデュロスMagnus Ladulås(1240?―1290、在位1275~1290)のもとで中央集権的な国家機構が生まれた。

 一方、フィンランド人は、ノルド人に比べて社会のより大きな単位への組織化が遅れていた。彼らが有していた宗教は、やはり多神教であったが、これを反映している『カレバラ』の神話は、北欧神話と比べ平和主義的であることで知られている。このようなフィンランドの地は、ロシア(ノブゴロド共和国)との対決などを目的としたスウェーデン王国の東方への遠征の対象となり、しだいに王国領に編入され、トゥルク(オーボ)には司教座が設けられた。フィンランド人を味方につけたスウェーデン王国は、1323年ノブゴロド共和国とパヒキナサーリ(ネーテボリ)条約を結び、カレリア地方を二分して東方との戦争にいちおうの終止符を打った。

[百瀬 宏]

カルマル連合

14世紀になり、天候不良や黒死病で北欧の経済が衰退し、ハンザ同盟の影響力が強まって各地にドイツ人の特権社会ができかかると、北欧内部から反発が生じ、これを背景にデンマーク王バルデマー4世(在位1340~1375)の娘マルグレーテ(後のマルグレーテ1世)が巧みな政治的手腕を発揮して北欧諸国の貴族をまとめ、1397年、デンマーク、ノルウェー、スウェーデン3王国からなる同君連合「カルマル連合」を発足させ、姉の孫エーリク7世Erik Ⅶ(1382ころ―1459、デンマーク王(在位1396~1439)、ノルウェー王(エーリク3世、在位1389~1442)、スウェーデン王(エーリク13世、在位1396~1439))にこれを治めさせた。カルマル連合は、当時のヨーロッパではポーランド・リトワ連合に次ぐ広い版図を有したが、マルグレーテの死後エーリクの失政によってとくにスウェーデンの貴族や民衆の間に不満が高まり、ダーラナ出身の小鉱山主エンゲルブレクトの反乱(1434)には多くの民衆が参加した。こうしてデンマーク王とスウェーデン側との抗争が続いたが、スウェーデンのグスタフ・バーサがダーラナ地方の民衆蜂起(ほうき)を組織して1523年自国を離脱させ、身分制議会に擁立されて国王となった。グスタフ1世(在位1523~1560)という。

[百瀬 宏]

近代

バルト海をめぐる抗争

バルト貿易に対するハンザ諸都市の独占的支配は、すでに15世紀に揺らぎだしていたが、16世紀になると、ロシアや北欧は新たにオランダ人、イギリス人の商人によって先進資本主義的西欧と結び付けられ、その意味でバルト海に対する内外の関心はにわかに高まった。このような新しい国際的条件のなかで、スウェーデン、デンマーク両国は上からの宗教改革により教会の財産を没収して王室の富を蓄え、中央集権的国家体制を形成するとともに、バルト海支配を目ざして、相互に、あるいは北欧外の諸国と抗争するに至った。デンマーク王クリスティアン3世Christian Ⅲ(1503―1559、在位1534~1559)とスウェーデン王グスタフ1世には、その点自制がみられたが、彼らが相次いで世を去ると若い後継者たちは野心をあらわにし、デンマークとスウェーデンはバルト海をめぐり、骨肉相はむ北方七年戦争(1563~1570)を戦い、両国民の間に宿命的な憎悪の念を植え付けた。

 その後スウェーデンは、カール9世Karl Ⅸ(1550―1611、在位1599~1611)のもとにいちおうの安定は迎えたものの、たちまちポーランド、デンマークに挟撃された。グスタフ2世アドルフ(在位1611~1632)は、両国と和議を結び、かつロシアともストルボバ条約(1617)を結んでラドガ湖沿岸とイングリア地方を獲得したうえで、ポーランドを攻めてリボニアを手に入れた。ついでグスタフ2世は、1630年、三十年戦争に介入し、新教徒側にたってハプスブルク帝国の軍隊を破ったが、自身も戦死した。スウェーデンに先だち三十年戦争に介入していたデンマーク王クリスティアン4世(在位1588~1648)は、かえって敗北し、むしろスウェーデンを牽制(けんせい)する動きをみせたためスウェーデン軍の攻撃を招き、ブレムセブルーの講和条約(1645)でスウェーデンにゴトランド島とエーゼル島を割譲した。ついで1648年、クリスティーナ女王(在位1632~1654)治下のスウェーデンは、ウェストファリア条約に参加して、西部ポメラニアとブレーメンおよびベルダンの司教区を新たに得て、通称「バルト帝国」を形成するに至った。女王がローマ文化にあこがれて退位し南へ走ったあと、後継王のカール10世(1622―1660、在位1654~1660)は、ポーランドを攻め、デンマークと戦ったが、デンマーク王フレゼリク3世Frederik Ⅲ(1609―1670、在位1648~1670)は市民とともにコペンハーゲンを守り、イギリス、フランス、オランダの支持によって危地を脱したものの、スコーネをスウェーデンに奪われ、スカンジナビア半島への足掛りを失った。

 この戦争は、デンマークはもとより、スウェーデンの貴族勢力の衰退につながり、国王がそれぞれに絶対君主体制をつくりあげる契機となった。鉄をはじめとするスウェーデンの鉱産物、デンマークの穀物に対する海外需要の増大に伴い、北欧にもマニュファクチュアや商業活動が発達し、貧弱ながら発達してきた都市の市民は、絶対君主制の基盤を提供した。

[百瀬 宏]

絶対主義の干満

バルト帝国は、表面は隆盛を誇りながら、実体は中に海を抱え込んだ脆弱(ぜいじゃく)性をもっていた。列強もいまやスウェーデンを抑え込む方針であり、カール12世(在位1697~1718)が即位して3年後、デンマーク、ザクセン、ロシアの北方同盟とスウェーデンとの間に大北方戦争が始まった。カール12世の軍は、一時はロシアに攻め入りモスクワを目ざしたが、厳冬のために疲弊し、ポルタバの会戦(1709)で大敗を喫し、王はトルコに逃れるありさまで、5年後に帰国して挽回(ばんかい)を図ったものの王自身が戦死し、後継のフレゼリク1世(在位1720~1751)のもとでようやくニスタット条約(1721)による休戦に持ち込み、西カレリアをも含む広大な領土割譲を行ってバルト帝国は崩壊した。この大敗北はスウェーデンの王権を揺るがし、貴族層が政治面で勢力を盛り返す好機となった。1720年に制定された政体書(憲法)は、議会に立法権および開戦の批准権を与えるなど王権をきわめて縮小し、そのもとで議会を舞台とする政党政治の原型が生まれた。ハット党とメッサ(縁なし帽)党の対立は著名である。この時代を「自由の時代」とよぶ。しかし、グスタフ3世(在位1771~1792)は1771年にクーデターを起こしてこの状態に終止符を打ち、啓蒙(けいもう)専制政治を敷いた。

 一方、大北方戦争後のデンマークでは絶対王制が続き、フレゼリク4世(1671―1730、在位1699~1730)のもとでホルベアの活躍による文学の開花、フレゼリクの息子クリスティアン6世(1699―1746、在位1730~1746)によるピエティズム(敬虔(けいけん)主義)の信仰などの時代が訪れた。だが、病弱のクリスティアン7世(1749―1808、在位1766~1808)の時期にストルーエンセJohann Friedrich Struensee(1737―1772)が宮廷で権勢を振るい、啓蒙専制政治を試みたが失敗し、王妃とのスキャンダルから処刑された。

[百瀬 宏]

自由主義と民族ロマンチシズム

フランス革命に続くナポレオン戦争は、中立を望んだ北欧2国を巻き込み、その結果スウェーデンはフィンランドをロシアに割譲し、またデンマークも敗北してノルウェーをスウェーデンに奪われた。スウェーデン軍が到着するまでのつかのま、ノルウェーは前総督クリスティアン・フレゼリクChristian Frederik(1786―1848)を国王に担いで1814年独立を宣言したが、これは失敗に終わった。このとき採用したアイスボル憲法は、一院制の議会(ストアティング)とともに、ナポレオンの部下でベルナドット王朝を開いたカール14世(在位1818~1844)統治下のスウェーデンとの同君連合下で生き延びることとなった。

 ナポレオン戦争後の北欧には、民族ロマンチシズムの時代が訪れ、北欧の一体性をうたうスカンジナビア主義が北欧諸国の知識人をとらえた。スカンジナビア主義はまた、1830年以後、政治面にも進出していった。とくにデンマークでは、歴史的なダーネビアケ(バイキング時代の防御用土塁)を南境にもつスリースウィ公爵領をドイツ人の住むホルシュタイン公爵領から切り放し、これをデンマーク王国に合体することによって、旧来の同君連合体制の解体とデンマーク民族国家の創出を目ざすナショナル・リベラル派が台頭し、1848年、王国の立憲革命に成功したが、シュレスウィヒ(スリースウィのドイツ読み)・ホルシュタインのドイツ連邦帰属を主張するドイツ勢と衝突し、第一次スリースウィ戦争(1848~1850)が引き分けに終わったあと、第二次スリースウィ戦争(1864)に訴えたものの惨敗し、スリースウィの大部分はドイツ連邦側に奪われた。このとき、スウェーデン王カール15世(1826―1872、在位1859~1872)は大言壮語に反して動かず、ノルウェーもこれに追随し、政治的スカンジナビア主義は終止符を打たれた。

 この間、ロシア皇帝治下の「大公国」となったフィンランドでは、スウェーデンからの分離を契機にフィンランド民族としての自覚が育ち、ロンルートの収集したカレバラ神話を題材とする文化活動や哲学者スネルマンの活躍が目覚ましかった。

[百瀬 宏]

現代

工業化と中立小国への道

北欧諸国の工業化は、西欧諸国にはるかに遅れて19世紀末に始まったが、森林資源に恵まれたスウェーデンおよびノルウェー、酪農業に転換したデンマークの経済は、おりからの国際貿易の活発化により急速に発展した。政治面では、19世紀後半に農民勢力が議会に進出して官僚層に対抗し、一般民主主義的要求の担い手を演じたのち、20世紀初めからは労働者階級が自らを組織して普通選挙制など政治参加を獲得していった。デンマークでは保守派の支配が覆って左翼党(自由主義者)、ついで急進左翼党が政権の座につき、スウェーデンでも1905年に自由党政権が誕生した。またノルウェーは、1905年にスウェーデンから平和裏に分離独立し、人民投票によってクリスティアン・フレゼリクゆかりのデンマーク王子カールをホーコン7世(1872―1957、在位1905~1957)として王に迎え、1908年には左翼党急進派の内閣が成立した。

 一方、フィンランドでは、19世紀末から大公国の自治を奪おうとする「ロシア化」政策がロシア皇帝ニコライ2世(在位1894~1917)のもとで始まり、これに対して非暴力抵抗が行われた。1905年革命の際、ロシア皇帝は一時譲歩し、フィンランド側は一院制国会を獲得した。

 第一次世界大戦においては、北欧三国は、それぞれに戦時中立を志向する政策をとり、交戦諸国から揺さぶりをかけられながらも、かろうじて中立を守り通した。

[百瀬 宏]

戦間期の北欧

第一次世界大戦直後、北欧三国では一様に労働運動が活発化し、保守派との対決の空気が強まったが、スウェーデンでは女性参政権を含む選挙権の拡大が合意され、ノルウェーでは8時間労働制などが確立、デンマークでも「復活祭危機」(1920)が経営者側の譲歩によって解決されるなど妥協が行われた。フィンランドでは、1917年にロシア十月革命に乗じて独立が宣言されたが、1918年1月には内戦が勃発(ぼっぱつ)、これに勝利を収めた保守勢力側はロシア領カレリア(東カレリア)にまで「解放」軍を送り込み、新興フィンランドの内外政に深い傷跡を残した。また、すでに1874年にデンマーク王国政府から自前の憲法発布の成果をかちとっていたアイスランドでは、1918年、自立化の方向を確認した協定をデンマークから獲得した。

 1920年代には、新興国フィンランドを含めた北欧4か国では、多党制政治が円滑に機能し、いずれにおいても社会民主党が政権につくようになった。1929年に始まった大恐慌の結果は北欧諸国にも及んだが、各国の経済的立ち直りは早く、またいずれの国でも社会民主党が自由主義勢力の協力を得つつ政権を握り、経済界から譲歩を引き出して福祉政策の実行に着手した。

[百瀬 宏]

第二次世界大戦下の北欧

第二次世界大戦の暗雲が迫ると、北欧4か国は、国際連盟の規定する侵略者に対する制裁義務からの離脱を宣言し、また協同して中立同盟的な方向を模索したが、1939年にヨーロッパで大戦が始まると、フィンランドはソ連軍による侵入を被り(冬戦争)、デンマーク、ノルウェーはナチス・ドイツに占領されて、スウェーデンだけが、交戦列強の要求を巧みにさばきながら、またしばしば屈辱的外交を強いられながら中立を維持しとおした。

 デンマークでは、ドイツ側の締め付けの強まりに対し市民の抵抗も行われるようになり、結局ドイツ側はデンマークをヨーロッパ「新秩序」の「モデル保護国」とする方針をかなぐり捨て、軍政を敷いた。デンマークのレジスタンスは、詩人・劇作家として知られる牧師カイ・ムンク(1898―1944)の犠牲によって一段と鼓舞された。ノルウェーでは、本土のレジスタンスとロンドンに亡命した王国政府が連合国と協力しつつドイツ軍と戦った。フィンランドは、1941年から4年間、冬戦争の失地回復を意図して独ソ戦に巻き込まれ、当時のソ連と戦って敗れた。またアイスランドは、アメリカが英仏を支援するための基地となった。

[百瀬 宏]

福祉国家の実現

第二次世界大戦終結後、北欧諸国は戦禍からの復興を優先課題とした。ノルウェーは、大戦中の活動で商船の半分を失うなど打撃を受けていたが、復興のテンポは早く、3年後には国民総生産を戦前のレベルにまで回復した。中立維持により戦火を免れたスウェーデンは、国民総生産が2割増大するなど、隣接3国とは対照的な繁栄を享受していた。敗戦国フィンランドは、ソ連軍の占領は免れたものの、戦禍と厳しい休戦条件の履行にあえいだが、講和条約調印(1947)にこぎ着け、1952年には対ソ賠償を支払い終えて、同年ヘルシンキに第15回オリンピックを迎えた。また、アイスランドは、大戦の終結する以前の1944年に、国民投票の支持を背景に独立を宣言した。

 1950年代から1960年代にかけてのデンマーク、スウェーデン、ノルウェー3国の内政にみられる共通の特徴としては、社会民主党系の政党(ノルウェーでは労働党)が政権についた点をあげることができる。フィンランドでは、戦後、共産党の合法化によって、同党を含む人民民主同盟と社会民主党および農民党との連合政権が出現した。

 こうした政権下に、北欧諸国は、1950年代には戦後の復興を終わり、戦前からの工業化の継続と発展を目ざすことになった。経済計画が行われ、その主目的は完全雇用の実現にあったが、国民の経済的平等が執拗(しつよう)に追求されたことが特徴である。1950年代後半には北欧各国の工業発展のテンポは急速に高まり、とくに輸出部門の伸びが目覚ましかった。1950年代の経済成長によって北欧諸国民の生活水準は向上し、また社会構成も、1950年代末には、デンマーク、ノルウェー、スウェーデンで全所得者中に占める農・漁業従事者の割合は、2割に満たなくなった。このような経済的・社会的条件のもとに、社会民主党諸政府の社会政策が推進された。1960年代に、北欧諸国は福祉国家をほぼ実現するに至った。

 1970年代以降の北欧諸国は、いわゆるポスト福祉国家の問題に直面し、そこで改めて環境問題や人間の問題が問い直されつつあった。1960年代に北海油田が続々と発見されて経済的地位が向上したノルウェーを除くと、北欧諸国は先進世界の慢性的な景気後退のなかにあって経済不振に悩み、そのなかで福祉政策を維持していく困難も生じている。こうしたなかで、社会民主党の長期政権担当に対する国民の倦怠(けんたい)もようやく表面化し、1973年にスウェーデンで44年ぶりに社会民主党が政権を降りるなど、いわゆる保守化の傾向も現れた。1990年代に入ると、保守4党が連立政権を発足させ、1993年には高福祉政策の転換を打ち出した。1994年の総選挙では社会民主党が勝利し、1998年の総選挙でも政権は維持したが、保守政権同様、福祉の切り詰めなど緊縮財政による財政再建を推進した。1998年の総選挙で社民党が政権を維持したとはいっても、戦後最低の議席数で、少数単独政権であった。

 1935年からほぼ40年間労働党が政権を担当し、福祉国家を実現したノルウェーでも、1960年代後半から労働党と保守中道連合が交代で政権を担当している。

 北欧諸国は、多くの困難に直面しながらも、福祉国家を維持する方針は捨てていない。

[百瀬 宏]

戦後北欧の国際関係

第二次世界大戦直後、北欧諸国は、フィンランドを除き国際連合の加盟国として、諸大国の協調体制のうえに平和が築かれることを望んだが、米ソないし東西冷戦の進行によって新たな方針をたてざるをえず、1948年にはデンマーク、ノルウェー、スウェーデン3国間に中立同盟の交渉が試みられた。しかし、それも不首尾に終わり、デンマーク、ノルウェー、アイスランドは翌1949年北大西洋条約機構(NATO(ナトー))に参加し、スウェーデンは中立政策の路線を続けていくことになった。これより先、1948年にフィンランドは、大統領パーシキビJuho Kusti Paasikivi(1870―1956)の外交指導のもとに、当時のソ連と友好・協力・相互援助条約を結んだ(1992年に廃棄)。

 1960年代に入ると、北欧諸国間に「北欧均衡」とよばれるような興味深い相互依存関係の形成されていることが注目された。すなわち、フィンランドは、地理的にも対ソ軍事協力義務上も極度に限定されている対ソ友好・協力・相互援助条約を、同国の中立主義保障の条約としてソ連を含む諸外国に認識させる努力を通じて、またデンマークとノルウェーは、NATO加盟国であるにもかかわらず、平時における非外国軍基地・非核兵器政策を貫くことを通じて、さらにその中間に位置するスウェーデンは中立非同盟政策を堅持することを通じて、それぞれが、北欧をつとめて国際緊張の外に置き、ここを緩衝的地帯とすることに努力を払っていたといえるのである。こうした北欧地域の国際的地位も、1960年代後半以降、北極海とその周辺が米ソないし東西核軍事戦略の主舞台の一つとなるにつれて、厳しいものとなってきた。それにもかかわらず北欧諸国は、それぞれの対外政策の基本方針を変えようとはしなかった。

 こうした北欧諸国の相互協調は、北欧会議による相互協力にも現れている。北欧中立同盟の交渉が挫折(ざせつ)したとき、それに対する憂慮も主因になって北欧諸国間に1953年発足したのが北欧会議であって、各国の議員代表からなる同会議は、軍事・政治を除く諸分野で共通政策を実現していくために各国政府に勧告を行うことを目的としており、北欧閣僚会議と並んで、北欧共同労働市場の実現をはじめとする社会政策・交通政策・文化的協力の分野で多くの成果をあげてきた。ただ、経済分野では北欧関税同盟は実現せず、デンマークのみがヨーロッパ共同体(EC、現ヨーロッパ連合=EU)に加盟するという分裂を招いたが、これも、無理をせず実現可能かつ必要な分野で統合を進めていくという、北欧独自の実用主義の現れであったといえる。

[百瀬 宏]

冷戦終焉(しゅうえん)後の北欧

1989年の東西冷戦終焉は、北欧諸国にも大きな影響を及ぼした。もっとも、それ以前から北欧諸国の経済的地位は、地殻変動にも似た変化を被っていた。第二次世界大戦後長らくEFTA(エフタ=ヨーロッパ自由貿易連合)にとどまっていた北欧諸国は、1980年代に入ってECが急速に統合を強め、経済的地位を向上させていく状況に、ECとの結合の必要を切実に感じはじめた。変化の動きは、まず、EFTAとECの間でEEA(ヨーロッパ経済領域、1992年5月調印、1994年1月発足)を形成する交渉となって現れたが、北欧諸国は、実力をつけていくECに圧倒された。しかも、矢つぎばやに日程に上ったのは、北欧諸国がECそのものに加盟する問題であった。EC加盟国は、1993年マーストリヒト条約(ヨーロッパ連合条約)を結んでEU(ヨーロッパ連合)を形成したが、北欧諸国は、これへの対応をめぐって分裂した。本来ECのメンバー国であったデンマークが、同条約の中央集権的傾向への恐れからいったん国民投票でノーの答えを出す一幕があったが(1992年6月、批准の始まりがデンマークでの敗北であったことから、D・ショックとよばれた)、結局加盟を決め(1993年5月)、またスウェーデンとフィンランドが加盟した。他方、石油資源への執着のあるノルウェーと、漁業資源の確保を考えるアイスランドはEU外にとどまることになった。

 こうした変化は、これまで中立主義を掲げてきたスウェーデンとフィンランドの対外路線を大きく転換させることになった。EUがメンバー国に共通の外交・安全保障政策を課しているため、両国はいまや非同盟を掲げて従来の立場とEUの原則との調整を図っている。そこには、なお先行き不明の微妙な状況があるが、EU委員会の議長国に予定されているフィンランドが、コソボ問題でセルビア軍の強制排除の決定を支持しながら、ロシアの合意参加を粘り強く斡旋(あっせん)したのは、EU内部で独自の能力を発揮しようとしている現れであるといえよう。EUのもう一つの原則として、通貨統合があるが、フィンランドは、北欧のなかで1国だけ、ユーロ通貨加入に踏み切っている。

 こうした変化とともに、北欧という概念自体が変わっていくような状況が発生している。北欧諸国の一部だけがEUに加わっているという事態は、社会・文化の面で統合を進めてきた北欧会議の限界を示すことになったし、それ以上に北欧諸国間の足並みの乱れが明らかである。ところが、興味深いことは、スカンジナビア半島周辺に、従来みられなかった下位地域協力が進み始め、そこに参加することで改めて北欧諸国のアイデンティティ(帰属性)が強まるという現象が起きている。ここで、下位地域協力とは、ソ連・東欧圏の崩壊でバルト三国(エストニア、ラトビア、リトアニア)が独立を回復した環バルト地域、バレンツ地域(バレンツ海沿岸地域)、北極海地域で、ロシアも含む諸国間に、非軍事的分野で協力関係が進んでいることをさす。環バルト海協力を制度化したCBSS(バルト海沿岸諸国評議会)には、なんとアイスランドも含む全北欧諸国が参加した(CBSSは、バルト海を中心とする地域協力体制。ドイツ、スウェーデン、バルト三国など11か国からなる。1992年に最初の外相会議が開かれている)。さらにこれらの下位地域全体に対して「北部ヨーロッパ」(Northern Europe)という新呼称も生まれている。

[百瀬 宏]

『熊野聰著『北の農民ヴァイキング――実力と友情の社会』(1983・平凡社)』『早稲田大学社会科学研究所北欧部会編『北欧デモクラシー』(1982・早稲田大学出版部)』『百瀬宏著『北欧現代史』(『世界現代史28』1980・山川出版社)』『百瀬宏・熊野聰・村井誠人編『北欧史』(1998・山川出版社)』


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