北条氏政(読み)ほうじょううじまさ

精選版 日本国語大辞典 「北条氏政」の意味・読み・例文・類語

ほうじょう‐うじまさ【北条氏政】

戦国時代の武将。氏康の子。母は今川氏親の娘。父の遺志を継ぎ領国の拡大につとめ、安房・駿河、常陸を攻略したが、秀吉に小田原城を包囲され、自刃した。天文七~天正一八年(一五三八‐九〇

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デジタル大辞泉 「北条氏政」の意味・読み・例文・類語

ほうじょう‐うじまさ〔ホウデウうぢまさ〕【北条氏政】

[1538~1590]戦国時代の武将。氏康の長男。武田信玄上杉謙信の攻防に連携・対抗しながら領土を確保した。晩年、豊臣秀吉小田原城を包囲され、敗れて自刃。

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朝日日本歴史人物事典 「北条氏政」の解説

北条氏政

没年:天正18.7.11(1590.8.10)
生年:天文7(1538)
戦国・安土桃山時代の武将。相模小田原城主。氏康と今川氏親の娘(瑞渓院)の子。通称新九郎。左京大夫。隠居後は相模守,また 截流斎と号した。相甲駿(相模,甲斐,駿河)三国同盟成立後の天文23(1554)年12月,武田晴信(信玄)の娘(黄梅院)を妻とし,永禄2(1559)年12月に家督を継いだとみられる。翌3年の2月から3月にかけて,飢饉と疫病の流行に対処するため徳政を実施。また同年6月,貨幣法ともいうべき代物法度を改定して精銭と地悪銭の法定混合比率を7対3に確立した。同4年3月には長尾景虎(上杉輝虎,謙信)の小田原攻城を退け,これを契機に一向宗容認に転じた。同7年,第2次国府台合戦で里見義弘を破り,7月には太田氏資の内応を得て岩槻城を手中に収めたことで,武蔵をほぼ征服した。 永禄11年12月,晴信が今川領国の駿河へ侵攻すると今川氏真支援のため出陣し,遠江懸川にも援軍を派遣した。この事件により上杉氏との講和交渉が促進され,翌12年閏5月には相越(相模,越後)同盟が成立。同年10月,晴信が小田原に来襲し,その帰途,三増峠で合戦を行う。元亀2(1571)年10月,父氏康が死に名実ともに当主の座に着くと,まもなく晴信との講和交渉を開始。同年12月に相甲(相模,甲斐)同盟が成立し,相越同盟は破れた。ところが天正6(1578)年,輝虎没後の上杉家に継嗣紛争が起きると,上杉景虎(氏政の弟で輝虎の養子)支持を巡って武田氏との間に不和が生じ,相甲同盟は破綻した。翌7年9月,徳川家康と結んで武田勝頼挟撃を約し,駿河黄瀬川に出陣。同8年8月再び勝頼と黄瀬川に対峙するが,その陣中で家督を子氏直に譲り引退した。これは従来の武田氏とのかかわりを捨て,改めて親織田,武田撃滅の姿勢を示したものとみられる。引退後は「御隠居様」などと敬称され,氏直の政務を助けた。その後,天下統一を進める豊臣秀吉の上洛要求にはついに応じず,天正18年の秀吉による小田原攻めに際し,最終的に籠城を決断したといわれる。降伏後,切腹を命じられ自刃。信長には恐怖し,秀吉は侮るという錯誤を犯したことにより滅亡を招いた人物といえよう。

(佐脇栄智)

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改訂新版 世界大百科事典 「北条氏政」の意味・わかりやすい解説

北条氏政 (ほうじょううじまさ)
生没年:1538-90(天文7-天正18)

戦国時代の武将。後北条氏第4代。氏康の子。母は今川氏親の娘。1554年(天文23)相甲駿三国同盟の成立とともに,武田晴信(信玄)の娘を正室として迎え,59年(永禄2)12月に家督を継ぐ。翌60年には飢饉と疫病の流行に対処するため徳政を行い,また代物法度を改定して精銭と地悪銭の法定比率を確立している。61年父氏康とともに長尾景虎(のち上杉輝虎,謙信)の来襲を退けたが,その後,氏康が輝虎と結んだため,晴信の来襲を受けたが撃退した。氏政は71年(元亀2)の氏康死没直後に,岳父晴信と結び,輝虎を敵とした。武田勝頼および上杉景勝の代になってからは,両氏に対抗するため徳川家康織田信長に接近しているが,80年(天正8)に家督を氏直に譲って隠居し,後見となる。豊臣秀吉との対決には氏直を助けて奔走したが,小田原の戦に敗れ,90年7月11日に切腹して果てた。法名は慈雲院殿勝巌宗傑。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「北条氏政」の意味・わかりやすい解説

北条氏政
ほうじょううじまさ

[生]天文7(1538)
[没]天正18(1590).7.11. 小田原
戦国大名。後北条氏4代目。氏康の嫡子。母は今川氏親の娘。室は武田信玄の娘。法号は慈雲院松巌宗傑。永禄7 (1564) 年1月父氏康に従って安房の里見義弘を下総国府台に破ったのをはじめとして,7月には太田資正を武蔵岩槻城に攻め,同 12年1月上杉輝虎 (謙信) と和を結んで武田信玄と駿河で対戦した。元亀2 (71) 年にもたびたび武田軍と戦ったが,やがて信玄が三河の徳川家康を攻めると,氏政は兵を常陸,上総などに出し,佐竹氏,簗田氏などと戦った。天正7 (79) 年9月家康と和を結んだ氏政は武田勝頼と駿河黄瀬川で対陣し,武田氏を滅亡に導いた。同8年氏政は氏直に家督を譲り,その後見役として権力をふるったが,東国の雄としての自負心から秀吉の上洛勧告に応じず,同 18年の小田原征伐にあい,3ヵ月余の奮戦ののち,ついに開城,子の氏直は助命されたが,氏政は責を負って自刃。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「北条氏政」の意味・わかりやすい解説

北条氏政
ほうじょううじまさ
(1538―1590)

関東の戦国大名、後北条(ごほうじょう)氏第4代。氏康(うじやす)の子。母は今川氏親(うじちか)の娘。1559年(永禄2)家督を継ぐ。父とともに、上杉輝虎(てるとら)(謙信(けんしん))のたび重なる出兵を退けて領国を拡大した。68年末からは駿河(するが)に進出した武田信玄(しんげん)と戦い、これを討つため上杉氏との同盟締結に努力、69年に締結した。71年(元亀2)上杉氏との同盟を絶ち、ふたたび武田氏と和睦(わぼく)、ついで織田信長と結んで、関東の制圧を目ざした。80年(天正8)氏直(うじなお)に家督を譲ったのちも、実権を握って諸事を決した。豊臣(とよとみ)秀吉の上洛(じょうらく)命令に応じず、城の修築など軍備を強化し、決戦に臨んだ。90年、籠城(ろうじょう)策をとって秀吉の大軍を退けようとしたが、ついに降伏。弟の氏照(うじてる)とともに切腹を命じられ、7月11日小田原城(神奈川県小田原市)下で自刃した。

[池上裕子]


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百科事典マイペディア 「北条氏政」の意味・わかりやすい解説

北条氏政【ほうじょううじまさ】

戦国時代の武将で,後北条氏の4代目。父は北条氏康。1554年相甲駿三国同盟の成立とともに,武田晴信(武田信玄)の娘を正室として迎えた。1559年に氏康の後を継いで北条氏の勢力拡大に努めたが,豊臣秀吉による小田原征伐で数ヵ月の籠城の末に降伏して切腹,北条氏による関東支配を終結させる最期になった。北条氏の領国は相模・伊豆・武蔵・下総・上総・上野から常陸・下野・駿河の一部に及び,最大版図を築き上げた。子の氏直は家康の婿の故をもって除名され高野山に追放された。後北条氏の系統は氏規(うじのり)が継承し,江戸時代に氏規の子北条氏盛が狭山藩主となり,明治維新まで存続した。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「北条氏政」の解説

北条氏政
ほうじょううじまさ

1538~90.7.11

戦国期~織豊期の武将。相模国小田原城(現,神奈川県小田原市)城主。戦国大名後北条氏4代。武田信玄の女婿。永禄初年家督をつぐ。父氏康の後見をえて上杉謙信・里見義弘らと戦い,北関東にも勢力をのばした。1569年(永禄12)氏康の主導によって謙信と結び信玄と敵対したが,71年(元亀2)氏康が死ぬと,武田氏との同盟を回復。しかし78年(天正6)以後再び敵対,79・80年武田勝頼と駿河国黄瀬川(現,静岡県沼津市)で対陣。同年子氏直に家督を譲る。90年豊臣秀吉の関東出兵(小田原攻め)をうけ,小田原城に籠ったのち降伏,切腹した。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「北条氏政」の解説

北条氏政 ほうじょう-うじまさ

1538-1590 戦国-織豊時代の武将。
天文(てんぶん)7年生まれ。北条氏康(うじやす)の長男。永禄(えいろく)2年,小田原城主北条氏4代となる。武田信玄,上杉謙信と同盟,交戦をくりかえし,北関東に勢力を拡大。天正(てんしょう)8年子の氏直(うじなお)に家督をゆずって後見役となる。18年豊臣秀吉に小田原城を攻囲され降伏。弟氏照(うじてる)とともに7月11日切腹。53歳。通称は新九郎。
【格言など】雨雲のおほへる月も胸の霧もはらひにけりな秋の夕風(辞世)

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旺文社日本史事典 三訂版 「北条氏政」の解説

北条氏政
ほうじょううじまさ

1538〜90
安土桃山時代の戦国大名
氏康の嫡子。甲斐(山梨県)の武田信玄と交戦,常陸 (ひたち) (茨城県)の佐竹氏を制圧。'82年織田・徳川両氏とともに武田勝頼を滅ぼした。'90年全国征覇をめざす豊臣秀吉に包囲され,小田原城に籠城ののち降伏,自刃させられた。

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世界大百科事典(旧版)内の北条氏政の言及

【小田原征伐】より

…1590年(天正18)豊臣秀吉が関東最大の戦国大名後北条氏を滅ぼして全国統一を完成させた戦い。九州征伐後秀吉は,北条氏政・氏直父子にも上洛を促したが,彼らは関東制覇の実績にもたれて秀吉の力を評価できず,上洛に応じなかった。1589年秀吉は,後北条氏の上野名胡桃(なくるみ)奪取を契機に,諸大名を動員し,後北条氏討伐を下令した。…

【後北条氏】より

…伊勢宗瑞(俗称北条早雲)を始祖とし,氏綱,氏康,氏政,氏直と5代にわたり相模の小田原城を本拠として関東に雄飛した戦国大名(図)。早雲はその出自など多くがなぞにつつまれた人物であるが,1476年(文明8)に義忠没後の今川家内紛の調停役として歴史の舞台に登場した。やがて駿河の興国寺城主となり,91年(延徳3)には足利茶々丸を討って伊豆を平定し韮山城に移る。95年(明応4)小田原城に大森藤頼を攻めてこれを奪い,関東進出の第一歩をしるした。…

※「北条氏政」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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