精選版 日本国語大辞典 「北条氏康」の意味・読み・例文・類語
ほうじょう‐うじやす【北条氏康】
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(佐脇栄智)
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関東の戦国大名、後北条(ほうじょう)氏第3代。氏綱(うじつな)の子。1541年(天文10)家督を継ぎ、翌年から相模(さがみ)、武蔵(むさし)の広い範囲で代替り検地を行った。52年上杉憲政(のりまさ)を越後(えちご)に追い、自分の甥(おい)の足利義氏(あしかがよしうじ)を古河公方(こがくぼう)にたて、前公方晴氏(はるうじ)父子を幽閉した。さらに河越(かわごえ)、松山(埼玉県川越市、東松山市)周辺に検地をし、滝山(たきやま)(東京都八王子市)、鉢形(はちがた)(埼玉県大里郡寄居(よりい)町)の支城に子の氏照(うじてる)、氏邦(うじくに)を入れた。そのほか、税制改革、軍役を定めた「小田原衆所領役帳」を作成するなど、領国経営の安定を図った。59年(永禄2)には氏政(うじまさ)に家督を譲ってこれを後見し、武田・今川氏との同盟をバックに上杉輝虎(てるとら)(謙信(けんしん))の進攻を退け、勢力を拡大した。晩年、駿河(するが)に進出した武田信玄(しんげん)を討つため、上杉氏との同盟締結に全力を傾け69年締結したが、死にあたっては、これを破棄して、ふたたび武田氏と結ぶよう遺言したといわれる。
[池上裕子]
戦国時代の武将。後北条氏第3代。氏綱の子。左京大夫,相模守。1541年(天文10)に家督を継ぎ,その翌年と翌々年にかけて相模,南武蔵,伊豆等で代替り検地を実施し,50年には税制を改革して領国経営の基礎を固めた。この前の45年には駿河の富士川以東の地域をめぐり今川義元と争い,遂に駿河を失う。しかし翌46年,川越の夜討といわれる戦いに大勝し(河越城の戦),扇谷上杉氏を滅亡させた。さらに52年には山内上杉憲政を上野から越後に追い,54年駿河に攻め入ったが,結局,相甲駿三国同盟を結ぶ。またこの年,古河公方足利晴氏らを相模の秦野に幽閉したが,翌55年(弘治1)北武蔵で検地を実施するとともに税制の整備も行った。59年(永禄2)の初めに《小田原衆所領役帳》を作成させたが,その年末には家督を氏政に譲り,後見となる。69年に相越同盟を成立させ,71年10月3日没。法名は大聖寺殿東陽宗岱。
執筆者:佐脇 栄智
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1515~71.10.3
戦国期の武将。相模国小田原城(現,神奈川県小田原市)城主。戦国大名後北条氏3代。後北条氏は氏康の代に戦国大名として確立。1541年(天文10)家督をつぐ。46年河越城の戦の勝利などによって上杉氏を圧倒,関東における後北条氏の優位を不動にした。54年今川・武田両氏と三者同盟を結ぶ(善徳寺の会盟)。内政面では租税制度・貨幣制度・伝馬制度などを整備。永禄初年家督を子氏政に譲り後見となるが,同時に支城制度を固め,氏政の弟らを領国の各所に配置。61年(永禄4)上杉謙信に小田原城を攻められたが,武田信玄が南進に転じたため,69年には謙信と結んだ(越相同盟)。
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…伊勢宗瑞(俗称北条早雲)を始祖とし,氏綱,氏康,氏政,氏直と5代にわたり相模の小田原城を本拠として関東に雄飛した戦国大名(図)。早雲はその出自など多くがなぞにつつまれた人物であるが,1476年(文明8)に義忠没後の今川家内紛の調停役として歴史の舞台に登場した。やがて駿河の興国寺城主となり,91年(延徳3)には足利茶々丸を討って伊豆を平定し韮山城に移る。95年(明応4)小田原城に大森藤頼を攻めてこれを奪い,関東進出の第一歩をしるした。…
※「北条氏康」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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