北村西望(読み)きたむらせいぼう

精選版 日本国語大辞典 「北村西望」の意味・読み・例文・類語

きたむら‐せいぼう【北村西望】

彫刻家長崎県出身。東京美術学校卒。文展にたびたび入賞帝展審査員、母校教授芸術院会員となる。代表作に「怒濤」「晩鐘」、原爆被災地長崎市に建てられた「平和祈念像」などがある。明治一七~昭和六二年(一八八四‐一九八七

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デジタル大辞泉 「北村西望」の意味・読み・例文・類語

きたむら‐せいぼう〔‐セイバウ〕【北村西望】

[1884~1987]彫刻家。長崎の生まれ。文展帝展活躍。男性裸像にすぐれ、長崎市原爆中心地の「平和祈念像」で有名。文化勲章受章。

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百科事典マイペディア 「北村西望」の意味・わかりやすい解説

北村西望【きたむらせいぼう】

彫刻家。長崎県生れ。1912年東京美術学校卒。1921年から1944年まで東京美術学校教授,日展会長を歴任。1916年《晩鐘》で文展特選。《長崎平和祈念像》など勇壮な人体像を得意とし,100歳を過ぎても平和をテーマ制作を続けた。1958年文化勲章。東京井の頭公園に記念館がある。
→関連項目建畠大夢

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「北村西望」の意味・わかりやすい解説

北村西望
きたむらせいぼう
(1884―1987)

彫刻家。長崎県に生まれる。1907年(明治40)京都市立美術工芸学校彫刻科を卒業、翌年第2回文展に初入選。さらに東京美術学校彫刻科に学び、1912年に卒業、1915年(大正4)第9回文展で『怒濤(どとう)』が二等賞、第10回文展で『晩鐘』が特選となった。1919年以来帝国美術院展覧会審査員、1921~1944年東京美術学校教授。1925年帝国美術院会員となり、官展系彫刻に指導的な役割を果たした。1958年(昭和33)文化勲章を受け、その後日本彫塑会名誉会長を務める。代表作に『長崎市原爆中心地建立平和祈念神像』(1955)などがある。

三木多聞


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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「北村西望」の意味・わかりやすい解説

北村西望
きたむらせいぼう

[生]1884.12.16. 長崎
[没]1987.3.4. 東京
彫刻家。 1907年京都市立美術工芸学校を卒業後,東京美術学校に学ぶかたわら,08年第2回文展に初入選。 12年に同校を卒業し,以後文展,帝展などの官展出品を続けた。 19年帝展審査員,25年帝国美術院会員となる。 21~44年東京美術学校教授として後進を指導。 58年文化勲章受章,日本芸術院会員。代表作に『怒濤』 (1915) ,『晩鐘』 (16,東京国立近代美術館) ,巨像『長崎平和祈念像』 (55) などがある。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「北村西望」の解説

北村西望 きたむら-せいぼう

1884-1987 明治-昭和時代の彫刻家。
明治17年12月16日生まれ。大正5年文展で「晩鐘」が特選となる。10年母校東京美術学校(現東京芸大)の教授。14年帝国美術院会員。昭和30年長崎の「平和祈念像」を完成。33年文化勲章。力づよい男性裸像にすぐれた。昭和62年3月4日死去。102歳。長崎県出身。本名は西望(にしも)。著作に「百歳のかたつむり」。
【格言など】たゆまざる歩みおそろしかたつむり―自分は天才ではない。他人が五年でやることを十年かけてでもやる

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