北朝(読み)ほくちょう

精選版 日本国語大辞典 「北朝」の意味・読み・例文・類語

ほく‐ちょう ‥テウ【北朝】

[一] 中国の南北朝時代に華北を本拠とした諸王朝。五胡十六国の紛乱後、約二百年間に、北魏・東魏・西魏・北斉・北周の五朝(三八六‐五八一)が興起、北周をついだ隋が南朝の陳を滅ぼして南北を統一した。南朝に対する称で、鮮卑系の拓跋氏をはじめとする非漢民族による王朝を主体とする。
[二] 南北朝時代、吉野を中心とする後醍醐天皇以下の大覚寺統の南朝に対して、室町幕府京都に擁立した持明院統の朝廷をいう。光明・崇光・後光厳・後円融と続き、後小松天皇に至り、明徳三年(一三九二)両朝統一の和議がなされた。→南北朝時代

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デジタル大辞泉 「北朝」の意味・読み・例文・類語

ほく‐ちょう〔‐テウ〕【北朝】

中国の南北朝時代、華北に拠って興亡した北魏西魏東魏北斉北周の5王朝の総称。北周を継いだずいが南朝のを滅ぼして南北を統一した。
日本の南北朝時代、延元元=建武3年(1336)足利氏が京都に擁立した持明院統の朝廷。光厳光明崇光後光厳後円融後小松の各天皇が立ち、元中9=明徳3年(1392)南朝と合一した。

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改訂新版 世界大百科事典 「北朝」の意味・わかりやすい解説

北朝 (ほくちょう)

日本の南北朝時代に並立した両朝のうち,持明院統の系譜をひき,足利氏に擁立されて京都に存在した朝廷。吉野にあった大覚寺統の朝廷に対し,北方にあったので北朝とよばれ,光明,崇光,後光厳,後円融,後小松の5代の天皇が皇位についた。鎌倉後期に天皇家は持明院・大覚寺両統に分裂,皇位継承皇室領荘園をめぐる抗争が続いたが,大覚寺統の後醍醐天皇が親政を実現し,活発な政治活動をおこなって鎌倉幕府と対立し,元弘の乱によって京都を追われたため,以前から幕府に接近していた持明院統の量仁親王が幕府に擁立されて光厳天皇となり,両朝並立の端緒が開かれた。その後,後醍醐天皇の復帰,鎌倉幕府の滅亡によって光厳天皇は退位したが,やがて足利尊氏と後醍醐天皇との間が決裂して建武政府が分解すると,1336年(延元1・建武3)尊氏は光厳上皇の弟豊仁親王を擁立して皇位につけ(光明天皇),一方,後醍醐天皇は神器を携えて吉野に逃れ,持明院統(北朝)と大覚寺統(南朝)の対立は決定的となった。以後半世紀以上にわたって南北両朝が並立し,全国各地で抗争が展開された(南北朝内乱)。

 北朝を擁立した足利氏は,はじめのうち尊氏・直義兄弟の対立など内部に対立の種を抱えており,尊氏あるいは直義が戦略上南朝と結ぶこともあった。ことに51年(正平6・観応2)尊氏は鎌倉に下向した直義とその養子直冬を討つために南朝と和睦し,南朝の要求に従って崇光天皇と皇太子直仁親王を廃し,南朝方が京都を奪還した(正平一統)。しかし和議はわずか5ヵ月たらずで破れ,翌年閏2月には光厳上皇の皇子弥仁親王が践祚して(後光厳天皇),北朝が再建された。この北朝再建は,幕府存続の大義名分を得るために足利義詮によって強行されたもので,北朝が足利氏の傀儡(かいらい)的存在であったことを示している。その後も北朝=室町幕府勢力と南朝勢力とは,畿内や九州などを舞台に抗争を続けたが,南朝方はしだいに劣勢となり,関東で足利基氏が,九州で今川了俊がそれぞれ反対勢力を制圧して室町幕府の全国支配体制が整うに至って,内乱の帰趨は決定的となった。室町幕府2代将軍義詮のころから南北両朝合一の交渉が幾度か試みられたが,3代将軍義満の代になると,全国統一の完成をめざす幕府の側から積極的に交渉が進められ,92年(元中9・明徳3)南朝の後亀山天皇から北朝の後小松天皇に神器が渡されて南北両朝の合一が実現した。このとき,合一の条件として,皇位は南北両朝すなわち大覚寺・持明院両統が交互に継承することが定められたが,この条件は履行されず,1411年(応永18)に後小松天皇の皇子実仁親王が皇太子となり,翌年譲位されて践祚(称光天皇)したため,これを不満とする南朝=大覚寺統支持勢力の蜂起が各地で続いた。しかしこれもやがて鎮圧され,皇位は北朝系=持明院統にのみ継承されて現在に至っている。
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北朝 (ほくちょう)
Běi cháo

中国,北から隋に至る華北諸王朝の総称。439年(太延5)北魏は北涼を滅ぼして華北を平定し,五胡十六国の分立状態に終止符を打ったが,江南でも420年(永初1)の晋・宋革命を契機に漢族政権の江南土着化が深まった(南朝)。かくして中国は南北の対立を基調とする時代に入った。これは中国再統一の第一歩を示すもので,北魏孝文帝の時代に南北の緊張が高まるが,やがて北魏は東西両魏に分裂し,ついでそれぞれ北・北に引きつがれる。北周は北斉を併呑して華北再統一に成功し,これをうけた隋が589年(開皇9)南朝陳を滅ぼして中国全土を平定,南北朝の対立は解消された。北朝社会の特色は胡族的要素の濃厚な武力支配にあり,後世の史家は漢人貴族文化の興隆した南朝を正統とする傾向が強い。しかし北朝諸政権が胡・漢の両社会を統合し,かつて古代王朝の栄えた華北社会の秩序再建につとめた功績は大きく,その努力は唐朝の律令体制や胡・漢両世界を包摂する世界帝国体制に結実した。唐の李延寿の《北史》は,北朝史を紀伝体で著したものである。
魏晋南北朝時代
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「北朝」の意味・わかりやすい解説

北朝
ほくちょう

南北朝時代、京にあった持明院統(じみょういんとう)の朝廷。大和国吉野などに拠った大覚寺統(だいかくじとう)の南朝に対していう。建武政権が崩壊した1336年(建武3・延元1)、光厳上皇(こうごんじょうこう)の院宣を奉じて入京した足利尊氏に逐われた後醍醐天皇が京を脱出したのち、光厳院政のもとで光明天皇(こうみょうてんのう)が践祚(せんそ)して成立し、以後、崇光(すこう)・後光厳・後円融(ごえんゆう)・後小松(ごこまつ)の各天皇が皇位を継いだ。鎌倉末期に皇位に即きながら後醍醐天皇の復位によって廃位された光厳天皇を初代として算入し、後小松まで6代を数えることがある。北朝は、南北朝時代をほぼ一貫して京にあって公事(くじ)の再興を担ったが、当時南朝方に与する勢力を宮方とよんだのに対して北朝方を武家方とよぶことがあったように、武家(足利氏)に支えられて存立し、この間に公家と武家の緊密な連携体制が構築される。1392年(明徳3・元中9)に「三種の神器」が南朝後亀山天皇(ごかめやまてんのう)から北朝後小松天皇へ渡されて両朝の合一が成り、爾後皇位は持明院統に継承されて当代にまで連なる。ただし、明治天皇の勅裁により南朝が正統とされてのち、現在では後小松を除き歴代数に算入されていない。

[新田一郎]

『田中義成著『南北朝時代史』(1979・講談社学術文庫)』

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百科事典マイペディア 「北朝」の意味・わかりやすい解説

北朝【ほくちょう】

南北朝時代,室町幕府に擁立されて京都に存立した持明院統(じみょういんとう)の朝廷。光明(こうみょう)・崇光(すこう)・後光厳(ごこうごん)・後円融・後小松の5代。南朝に比べれば全国的な政治権力だったが,幕府の軍事力の前には無力だった。後小松天皇が1392年南朝の後亀山天皇から神器を受け継ぎ,南北両朝は合一。現在の天皇は北朝の皇統。
→関連項目光明天皇中村両統迭立

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「北朝」の意味・わかりやすい解説

北朝
ほくちょう

延元1=建武3 (1336) 年足利尊氏が京都に擁立した持明院統の朝廷。吉野に後醍醐天皇が保持した南朝と対立した。延元1年光厳 (こうごん) 上皇を奉じて入京した尊氏は,その8月上皇の弟の光明天皇を立て,後醍醐天皇と対抗。まもなく後醍醐天皇は降伏して,三種の神器 (じんぎ) を光明天皇に授与したが,しばらくして神器をもって吉野に脱出,兵をあげ尊氏と戦った。北朝は,光明天皇のあとを光厳上皇の子崇光,次いで崇光の弟後光厳天皇が継いだ。以後皇位は後光厳の子の後円融,孫の後小松天皇へと5代継承された。元中9=明徳3 (92) 年足利義満の南北朝合体政策が成功し,南朝の後亀山天皇が後小松天皇に神器を譲り,北朝が存続した。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「北朝」の解説

北朝
ほくちょう

南北朝期の二つの朝廷のうち,京都の持明院統の朝廷。1336年(建武3・延元元)九州から入京した足利尊氏が光厳(こうごん)上皇の弟を擁立して光明天皇とし,後醍醐天皇が吉野にのがれたのに始まる。51年(観応2・正平6)尊氏と南朝との和睦で途絶えたが,翌年,光厳上皇の子が後光厳天皇として即位し再建。両朝の合一後もこの皇統,朝廷が存続した。光厳上皇と,光明・崇光(すこう)・後光厳・後円融・後小松の5天皇。年号は建武・暦応・康永・貞和・観応・文和・延文・康安・貞治・応安・永和・康暦・永徳・至徳・嘉慶・康応・明徳。京都に位置したため,制度などは従来のものを継承し,実態を記す公家の日記なども多く残る。

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旺文社日本史事典 三訂版 「北朝」の解説

北朝
ほくちょう

南北朝対立時代,足利尊氏が擁立した京都の持明院統の朝廷(1336〜92)
光明・崇光 (すこう) ・後光厳・後円融・後小松の5代の天皇が続き,後小松天皇のとき,1392年南北朝合体が行われ,南朝の後亀山天皇より神器をうけた。以後北朝が皇位を継承して現在に至る。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「北朝」の解説

北朝(ほくちょう)

魏晋南北朝(ぎしんなんぼくちょう)

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旺文社世界史事典 三訂版 「北朝」の解説

北朝
ほくちょう

南北朝

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