北政所(読み)きたのまんどころ

精選版 日本国語大辞典 「北政所」の意味・読み・例文・類語

きた‐の‐まんどころ【北政所】

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「北政所」の意味・わかりやすい解説

北政所
きたのまんどころ

摂政関白(せっしょうかんぱく)の妻の尊称であるが、狭義には豊臣(とよとみ)秀吉正室おね(1548―1624)をいう。尾張(おわり)(愛知県)の人。杉原定利の女(むすめ)で浅野長勝の養女。1561年(永禄4)14歳で秀吉と結婚。88年(天正16)4月19日従(じゅ)一位に上る。糟糠(そうこう)の妻として内助の功あり、秀吉生母にもよく孝養を尽くした。秀吉の死後落飾して高台院(こうだいいん)と号す。1606年(慶長11)京都東山に高台寺を建て、秀吉の菩提(ぼだい)を弔った。徳川氏より化粧料として河内(かわち)(大阪府)に1万3000石を支給された。

[橋本政宣]

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「北政所」の解説

北政所
きたのまんどころ

平安時代以後,摂政・関白の正室をいう。北は陰陽の陰を表し,邸宅では夫の主催する公的な空間に対して奥むきの空間を意味した。大臣らの正室を北の方(きたのかた)というのに対し,とくに北政所と称したのは,彼女らが自身高い位階をえたり准三后(じゅさんごう)の位をえて政所を開くことを許されたことによると考えられる。やがて大臣,大・中納言の正室も北政所と称された。なお北政所は一般名詞であったが,豊臣秀吉正妻寧子がとくに有名なため,固有名詞化した。

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旺文社日本史事典 三訂版 「北政所」の解説

北政所
きたのまんどころ

1549〜1624
安土桃山時代,豊臣秀吉の正妻
名はねね。尾張(愛知県)の人。杉原氏の娘。秀吉が関白になると従三位に叙せられ,北政所と称された。側室淀君とは対照的な温順な女性。秀吉の死後出家し,1603年高台院の号を勅許され,のち徳川家康により高台寺が建立された。なお,元来北政所とは,摂政・関白の正室を指したが,秀吉の正妻が特に有名なことから固有名詞化した。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「北政所」の解説

北政所 きたのまんどころ

高台院(こうだいいん)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「北政所」の意味・わかりやすい解説

北政所
きたのまんどころ

高台院」のページをご覧ください。

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世界大百科事典(旧版)内の北政所の言及

【高台院】より

…自署名は禰(ね)。1585年(天正13)秀吉の関白就任で北政所と称され,88年の従一位叙位記に豊臣吉子と記され,1603年(慶長8)高台院の号を勅賜された。尾張の人杉原定利の次女。…

【政所】より

…妻は無位でも夫が資格を得ると政所を置いたが,その政所は夫とは別であった。後世,摂関家をはじめ貴族の妻を政所,北政所(きたのまんどころ)と称するようになる理由はここにあったと考えられる。(3)鎌倉・室町幕府の財政,政治の機関。…

※「北政所」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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