北山殿(読み)キタヤマドノ

デジタル大辞泉 「北山殿」の意味・読み・例文・類語

きたやま‐どの【北山殿】

京都北山にあった足利義満あしかがよしみつ別荘。義満の死後鹿苑寺ろくおんじ金閣寺)となった。北山第きたやまてい
足利義満異称

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

精選版 日本国語大辞典 「北山殿」の意味・読み・例文・類語

きたやま‐どの【北山殿】

[一] 京都市の市街地の北西方、衣笠山のふもとにあった足利義満の別荘。鎌倉時代西園寺公経(さいおんじきんつね)が営んだ山荘を応永元年(一三九四)譲り受けて造営寝殿舎利殿小御所などの建物と、広大な庭園とがある。義満の死後、鹿苑寺(金閣寺)となった。
[二] (転じて) 足利義満の別称。

出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「北山殿」の意味・わかりやすい解説

北山殿
きたやまどの

室町時代,3代将軍足利義満が京都北山に営んだ別荘をいい,これにちなんで義満自身をもいう。ここには,元仁1(1224)年に西園寺公経が建てた別荘があったが,義満は西園寺実永からこれを譲り受け,工費百余貫を投じて応永4(1397)年に完成させた。同 15年には後小松天皇が行幸した。鹿苑寺金閣はその遺構。当時は,舎利殿,天鏡閣,護摩堂,懺法堂があり,広大な庭とともに異彩を放っていた。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

山川 日本史小辞典 改訂新版 「北山殿」の解説

北山殿
きたやまどの

京都北山(現,京都市北区金閣寺町)にあった足利義満の邸宅。もとは1224年(元仁元)西園寺公経が造営した山荘で西園寺家の所有。1394年(応永元)12月,将軍職を嫡子義持に譲った義満はこの地を譲りうけ,97年室町殿を義持に与えて移住。以来,義満死去にいたるまで政治・文化の中心となった。義満没後まもなく寺となり,鹿苑寺(ろくおんじ)と称した。金閣寺はその遺構。

出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「北山殿」の解説

北山殿 きたやまどの

足利義満(あしかが-よしみつ)

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内の北山殿の言及

【室町時代美術】より

…それは,平安時代の宮廷美術に代わる,新しい貴族趣味の美術としての側面をそなえている。義満が建てた北山殿の遺構である鹿苑寺の金閣(舎利殿,1398)は,それまでの住宅建築になかった三層の楼閣であり,禅宗寺院の影響が指摘されている。しかしながら,北山殿の主屋は寝殿であり,独立して建てられた会所は,唐物,唐絵の陳列場でもあった。…

【鹿苑寺】より

…北山と号し,通称〈金閣寺〉で有名。現寺地辺には公家の西園寺家の山荘があったが,これを足利義満が譲り受けて,1397年(応永4)から北山殿(きたやまどの)の造営に着手し,翌年義満はここに移った。以後1408年の義満没年までの10年間,北山殿は室町幕府政治の中心となった。…

※「北山殿」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

焦土作戦

敵対的買収に対する防衛策のひとつ。買収対象となった企業が、重要な資産や事業部門を手放し、買収者にとっての成果を事前に減じ、魅力を失わせる方法である。侵入してきた外敵に武器や食料を与えないように、事前に...

焦土作戦の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android