北山恒(読み)きたやまこう

日本大百科全書(ニッポニカ) 「北山恒」の意味・わかりやすい解説

北山恒
きたやまこう
(1950― )

建築家。香川県生まれ。1976年(昭和51)横浜国立大学工学部建築学科卒業。1978年建築設計事務所「ワークショップ」設立、大学の同級生谷内田(やちだ)章夫(1951― )、木下道郎(1951― )と共同主宰。1980年横浜国立大学大学院修士課程修了。1987年同大学専任講師、1995年(平成7)同大学助教授、2001年同大学教授。同年「ワークショップ」を解散し、architecture WORKSHOPを設立、主宰する。

 国分寺西町の家(1981)(東京都国分寺市)は北山が大学院に在学中、設計を行ったデビュー作である。立体格子のグリッドに基づいた構造建具だけで空間を構成したほぼワンルームの住宅である。恣意(しい)的なデザインによらず、既存の構造や建具などのシステムをそのまま採用する、という後の北山の手法を表した作品であった。

 1993年にはくまもとアートポリス(1988年、当時の熊本県知事細川護熙(もりひろ)の指示で始められた都市開発事業。コミッショナー磯崎新(あらた))に招待され、初の公共建築となる産山(うぶやま)村花の温泉館を「ワークショップ」として共同設計する。ここで北山らは、建築が周囲の環境にいかに溶け込むかをテーマとした。彼らが注目したのは、自然のランドスケープではなく、周囲に散在するアルミサッシ製の野菜や花卉(かき)栽培用の温室であった。温室の開放的な空間のなかに温泉や物産販売、レストランなどの機能を配置した。

 北山は1995年、横浜国立大学の助教授就任を機に事務所を単独で主宰し、建築設計の実践とともに方法論を研ぎ澄ましていく。宮城県白石市における一連の作品、白石市立白石第二小学校(1996)、白石市営鷹巣(たかのす)住宅(1999)では、プログラムの段階から具体的な建築の造形に至る過程で、利用者とのワークショップを経て、ユニットとなる空間とその集合を多様な用途で使用可能なコモンスペース(共同の空間)としてつくりだした。Ryokan浦島(1997、新潟県佐渡島)やCranes Factory(1998、東京都)では、リサイクル可能な素材や工業化された安い素材、すなわち波板ガラスや大波スレート、成型セメント板などを用いながらも居心地のよい空間をつくりあげている。伊豆のナインスクエア(1998)、Z-HOUSE(1999)、下馬(しもうま)の連続住居(2002)などの一連の小住宅においても、徹底して素材や構造が吟味され、多様な空間構成をもちながらも工業製品など既製品を流用する初期の作品の方法論を貫いている。北山にとって建築は「現代という状況の海に漂う特異点」であり、環境や建築が生まれる状況によってデザインや戦略を変化させる。そして「その状況を読み取ることで、建築を手がかりに、その時代の環境に新たな人と空間の関係の取り方を提示できる」という。

 おもな著書には、共著で『領域を越えて』(1993)、『未来への構築』(1995)、『建築家への道』(1997)、単著で『ON THE SITUATION』(2002)などがある。

[鈴木 明]

『新日本建築家協会関東甲信越支部業務部会編、北山恒他著『領域を越えて――多様化する建築家そのフィールドとスタンス』(1993・新日本建築家協会)』『伊藤俊治他監修、北山恒・隈研吾他著『未来への構築――方法/目的/行為をめぐる7つのポリローグ』(1995・デルファイ研究所)』『吉田研介編、北山恒・内藤廣他著『建築家への道』(1997・TOTO出版)』『「特集 北山恒 空間の組成システム」(『建築文化』1999年3月号・彰国社)』『ギャラリー「間」編『ON THE SITUATION』(2002・TOTO出版)』『岸和郎・北山恒・内藤廣著『建築の終わり――70年代に建築を始めた3人の建築談義』(2003・TOTO出版)』

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