北口本宮冨士浅間神社(読み)きたぐちほんぐうふじせんげんじんじや

日本歴史地名大系 「北口本宮冨士浅間神社」の解説

北口本宮冨士浅間神社
きたぐちほんぐうふじせんげんじんじや

[現在地名]富士吉田市上吉田

上吉田かみよしだの南東、諏訪の森すわのもりにある。社前を国道一三八号(旧鎌倉街道)が北西から南東に通る。祭神は木花開耶姫命・天津彦彦火瓊瓊杵命・大山祇命。旧県社。幕末まで富士浅間明神などと称した。諏訪の森の称は、浅間明神勧請以前に当地の産土神諏訪明神が鎮座していたことによるという(甲斐国志)。本殿南方の吉田口登山道の東脇に、日本武尊東征の旧跡とする大塚山おつかやまと称する小丘がある(社記)。「甲斐国志」はこれを大塚と記して社殿創建以前の富士遥拝の地とする伝聞を載せる。また「三国第一山」の額を掲げる五丈八尺の大鳥居は富士山の鳥居で、社殿建立以前より建っていたであろうと推測している。当社の最も中心をなす施設であったらしく、慶応四年(一八六八)提出の由緒書上(社記)では社名を「富士大鳥居浅間社」とも記している。「勝山記」には鳥居の造立・倒壊などの記述が散見され、文明一二年(一四八〇)条には「富士山吉田取井立」、明応九年(一五〇〇)条には「吉田トリイ」、天文九年(一五四〇)条には「取訪ノトリイ」と表記され、起源を社殿の建立以前に求める「甲斐国志」の説の裏付となろう。「勝山記」天文二三年条が記す八月の鳥居倒壊の記事には「下浅間ノトリイコロヒ申候」とみえる。下浅間とは富士山二合目の御室おむろ浅間(現勝山村富士御室浅間神社の本宮)を上浅間と称したことに対する当社の呼称である(甲斐国志)。吉田鳥居・諏訪鳥居から下浅間鳥居へと表記が変わっていることが注目される。「勝山記」によれば、同一八年一一月に「下浅間ハイテン」の造営がなり、番匠の差配を法里衆(祝衆)が行ったとある。

永禄二年(一五五九)七月一八日小山田信有が「諏方御浅間大菩薩」に願文(北口本宮冨士浅間神社文書)を認めて、武運長久を祈って御戸之内金と金襴の戸張一流の寄進を約し、同四年四月二一日には武運長久・無病息災を願い、無事帰陣の際には神馬一疋を奉納すると約した(「小山田信有願文写」甲州古文書)。同五年五月吉日付で病気平癒ほかを「富士浅間大菩薩」に願った同人の願文写(社記)では、前代以来御山より納める「最花銭、以上拾三貫之代物」を寄進、神護寺を建立すること、回廊の造営、御正体として浅間明神の本地仏両菩薩と大日如来の尊形の造立、役所一ヵ所の寄進などを約している。先々代の本殿とされるひがし宮に永禄四年九月五日の造営を伝える墨書銘が残ることを併せ考えると、天文一〇年代に富士山の遥拝の地であった諏訪の森の地内に当初は諏訪明神に付属するかたちで浅間明神が勧請され、永禄年間にかけてその社殿が整備されていったものと推定される。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「北口本宮冨士浅間神社」の意味・わかりやすい解説

北口本宮冨士浅間神社
きたぐちほんぐうふじせんげんじんじゃ

山梨県富士吉田市上吉田に鎮座。木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)、彦火之瓊瓊杵命(ひこほのににぎのみこと)、大山祇命(おおやまづみのみこと)を祀(まつ)る。788年(延暦7)、時の甲斐(かい)国司の創建と伝承し、北条・武田氏以下の武将が崇敬保護した。明治の制で県社。例祭5月5日。

[鎌田純一]

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デジタル大辞泉プラス 「北口本宮冨士浅間神社」の解説

北口本宮(きたぐちほんぐう)冨士浅間(せんげん)神社

山梨県富士吉田市にある神社。富士登山道の入口に位置し、富士信仰の聖地として古くから知られる。祭神は浅間大神(木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)、彦火瓊瓊杵命(ひこほのににぎのみこと)、大山祇神(おおやまづみのかみ))。「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」の一部として、ユネスコの世界文化遺産に登録。本殿、神楽殿などの建物は、国の重要文化財に指定されている。

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