勝田主計(読み)しょうだかずえ

改訂新版 世界大百科事典 「勝田主計」の意味・わかりやすい解説

勝田主計 (しょうだかずえ)
生没年:1869-1948(明治2-昭和23)

明治・大正・昭和期の財政家,政治家。伊予松山に生まれ,松山中学校,一高を経て1895年帝国大学法科大学卒業,大蔵省に入る。入省後は税関検査官,函館税関長,臨時国債整理局長,理財局長を歴任し,この間ロシアの財政経済事情の調査,日露戦争後の国債整理,東洋拓殖会社,朝鮮銀行設立等の任にあたった。1915年寺内正毅朝鮮総督の要請で朝鮮銀行総裁に就任,翌年寺内内閣組閣とともに大蔵次官,大蔵大臣に任ぜられた。第1次大戦下の好況,国際収支の好転という条件のもとで,勝田は〈内は生産事業の促進を助長し,外は海外発展を伸長する〉積極財政を展開したが,その中心は対中国進出におかれ,西原借款を代表とする巨額の対中国借款を外務省,横浜正金銀行との間に軋轢(あつれき)をひきおこしつつ成立させた。その後24年には清浦奎吾内閣蔵相に就任して震災外債の成立に努め,28年には田中義一内閣文相,戦時中は興亜委員会委員,内閣参議,大東亜建設審議会委員となった。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「勝田主計」の意味・わかりやすい解説

勝田主計
しょうだかずえ
(1869―1948)

明治・大正期の大蔵官僚、政治家。明治2年9月15日伊予(いよ)国(愛媛県)松山に生まれる。帝国大学法科大学卒業後、大蔵省に入り、国債整理局長、理財局長などを歴任し、1914年(大正3)大蔵次官で退官、貴族院勅選議員となる。1915~1916年朝鮮銀行総裁。1916年10月寺内正毅(まさたけ)内閣のもとで大蔵次官、ついで同年12月大蔵大臣に就任、第一次世界大戦中の好況と外貨蓄積を背景に、積極財政を展開し、対中国投資(西原借款)を企画、実現した。さらに1924年1月に清浦奎吾(きようらけいご)内閣の蔵相、また1928年(昭和3)5月からは田中義一(たなかぎいち)内閣の文相を務めた。若いころ正岡子規(まさおかしき)と交わり、俳句を趣味とした。昭和23年10月10日没。

[大森とく子]

『勝田龍夫著『中国借款と勝田主計』(1972・ダイヤモンド社)』

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「勝田主計」の意味・わかりやすい解説

勝田主計
しょうだかずえ

[生]明治2(1869).9.5. 愛媛
[没]1948.10.10. 東京
財政家,政治家。東京帝国大学卒業後,大蔵省に入り,大蔵次官,朝鮮銀行総裁を歴任,1916年 12月寺内正毅内閣の蔵相に就任した。蔵相在任中,寺内内閣の段祺瑞内閣援助政策に関与,その後,清浦奎吾内閣の蔵相,田中義一内閣の文相をつとめ,39年平沼騏一郎内閣の内閣参議となり,戦時体制強化に協力した。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「勝田主計」の解説

勝田主計 しょうだ-かずえ

1869-1948 明治-昭和時代前期の官僚,政治家。
明治2年9月15日生まれ。大蔵省にはいり,理財局長をへて大正元年次官。4年朝鮮銀行総裁。寺内内閣,清浦内閣で蔵相,田中義一内閣で文相をつとめ,蔵相時代には,中国へのいわゆる西原借款や,震災外債の発行をおこなった。貴族院議員。昭和23年10月10日死去。80歳。伊予(愛媛県)出身。帝国大学卒。

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