加藤木重教(読み)かとうぎしげのり

改訂新版 世界大百科事典 「加藤木重教」の意味・わかりやすい解説

加藤木重教 (かとうぎしげのり)
生没年:1857-1940(安政4-昭和15)

日本最初の電気ジャーナル《電気之友》の刊行者,電気技術者。福島県三春に生まれ,一時は山崎姓を名のった。1872年に福沢諭吉の門下生として慶応義塾に入学,次いで工部省電信修技科(のち電信修技校)に入り,75年には工学寮に派遣されてW.E.エアトンに学んだ。電信技術官として勤務し,さらに電気試験所で電話機および電話交換法の研究に従事。88年に田中製作所(のちの芝浦製作所)の電気部長となった。89年渡米し,ウェスタン・エレクトリック社で電話交換機について実習。90年帰国し,三吉電機工場に入社,また深川電灯の技師長をつとめた。滞米中に,《エレクトリカル・ワールドElectrical World》誌社を訪ねて電気工学の発展にはこの種のジャーナルが不可欠であることを痛感,91年に《電気之友》を発刊した。創刊号は300部発行したが,好評で3版まで重版したという。加藤木は電友社を経営して電気機器の販売,電気工事設計請負,コンサルタント業を行うとともに,全国を踏査して電気事業,電気機械工業の実情を《電気之友》誌上に報じた。同誌および彼の大著《日本電気事業発達史》(前編1916,後編1918)は豊富なデータを含み,日本電気技術史上でもっとも重要な基本文献である。《電気之友》は第2次世界大戦末期に政府の雑誌統合政策にあって,1944年1月号を最後に廃刊した。
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出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「加藤木重教」の解説

加藤木重教 かとうぎ-しげのり

1857-1940 明治-昭和時代前期の電気技術者。
安政4年3月15日生まれ。工学寮でまなび,工部省をへて田中製作所(のちの芝浦製作所)にはいる。明治22年渡米し,電話機,電話交換機の製作を実習。24年日本初の電気雑誌「電気之友」を創刊した。昭和15年12月1日死去。84歳。陸奥(むつ)三春(福島県)出身著作に「日本電気事業発達史」。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

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