加藤春岱(読み)かとう・しゅんたい

朝日日本歴史人物事典 「加藤春岱」の解説

加藤春岱

没年:明治10.3.18(1877)
生年:享和2(1802)
幕末瀬戸陶工赤津御窯屋の家に生まれ,幼名は宗四郎。幼いときから陶芸に秀で,文化13(1816)年15歳で父景典の跡を継ぎ,御深井焼にも参加した。30歳前後に11代尾張(名古屋)藩主徳川斉温から「春岱」の号を拝領したという。瀬戸で磁器を創始した加藤民吉に対し,陶器を守る春岱は,伝統の瀬戸焼に,赤絵や織部志野の技も加え,陶胎に赤・白・黒で下絵付けした,いわゆる麦藁手にも長じていた。瀬戸焼では従来の伝統的な陶器を“本業”というが,春岱はその最後の名工のひとりである。作品には「春岱(花押)」と書き込み,伝統的な技術者であることを自負した。

(矢部良明)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「加藤春岱」の解説

加藤春岱 かとう-しゅんたい

1802-1877 幕末の陶工。
享和2年尾張(おわり)(愛知県)赤津の窯屋に生まれる。文化13年15歳で父春山の跡をつぎ,尾張名古屋藩の御用窯(御深井(おふけ)焼)にも参加。瀬戸焼の主流が磁器になりはじめた天保(てんぽう)以降も伝統の陶器をやき,赤絵や織部・志野の技法もくわえ,名工のひとりとされた。明治10年3月18日死去。76歳。通称は宗四郎,仁兵衛。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内の加藤春岱の言及

【瀬戸焼】より

… 瀬戸の磁祖と仰がれる加藤民吉(1772‐1824)が1804年(文化1)肥前に赴いて磁器の技法を学び,07年新製染付焼を瀬戸で開始するに及んで,磁器生産が急速に瀬戸・美濃一帯にひろがり,藩の保護政策を得て盛況を取り戻した。以後,幕末までに川本塐仙堂,加藤五助らの良工の手で技術改良が加えられ,また加藤春岱(しゆんたい)(1802‐77)らの名工も出た。すでに1858年(安政5)ころから瀬戸,美濃において舶来洋食器を試作,海外雄飛を企図し始めていたが,明治維新によって藩政の庇護を失った陶業者は困窮に陥り,混乱をみるにいたった。…

※「加藤春岱」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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