加治木郷(読み)かじきごう

日本歴史地名大系 「加治木郷」の解説

加治木郷
かじきごう

平安時代末期から中世にみえる郷名。現加治木町を中心として姶良町・溝辺みぞべ町の一部を含む地域に比定される。江戸時代は鹿児島藩の外城の一つとなる。保延元年(長承四年、一一三五)二月一日の宮永社役支配状(旧記雑録)にみえる「加治木郷」が郷名の初見とされ、中世には賀治木(大永七年四月九日「肝付兼演宛知行目録」喜入肝付家文書など)、「加地(木)(薩摩国建久図田帳)とも記される。

〔大隅国建久図田帳〕

大隅国建久図田帳によれば、加治木郷一二一町七段半は正八幡宮(現鹿児島神宮)領で、「正宮新御領」とみえることから、図田帳作成時から程近い頃に正八幡宮領になったと推測される。本家は山城石清水いわしみず八幡宮、地頭は中原親能であった。なお中原親能の地頭職は、正治元年(一一九九)以前に停止されている(「吾妻鏡」元久元年一〇月一七日条)。郷内は公田永用ながもち一〇六町二段半(領主は郡司大蔵吉平妻)鍋倉なべくら(現姶良町)三町(領主は僧忠覚)宮永みやなが八町(領主は正宮修理所酒井為宗)万徳まんとく四町五段からなっていた(→永用名。宮永は正八幡宮の修理料として設定された名で、当郷のほか桑東くわのとう郷・桑西くわのさい(現隼人町)等にも所在した散在名である(大隅国建久図田帳)。加治木郷の宮永は、すでに保延元年の前掲宮永社役支配状と同年二月二日の宮永社役支配状(旧記雑録)にみえ、正八幡宮の武内たけうち宮や早風はやち(隼風)(ともに鹿児島神宮境内に現存)等の修理料を負担する名の一つとなっている。宮永の領主酒井為宗は、建久九年(一一九八)三月一二日の大隅国御家人注進状写(隼人桑幡文書)に宮方御家人の一人として修理所為宗とみえる。

〔石築地役配符〕

建治二年(一二七六)八月日の石築地役配符写(調所氏家譜)には、加治木郷の内部構造が詳しく記されているが、当郷の田数表記には誤写に伴うと推測される誤記が目立つ。なお同配符写は文永の役後に幕府の命によって筑前博多湾岸に石築地(石塁)を築く際のもので、各自の所領面積とそれに応じた石築地の負担の長さを記したものである。これによると、永用一〇六町二段半は本名永用五〇町(御家人加治木郡司氏平)久永ひさなが二〇町(御家人木田三郎掾通平)永富ながとみ二〇町二段(御家人別府二郎長光)吉原よしわら一〇町(御家人又二郎俊平)からなり、ほかに鍋倉三町(大輔法橋勝印)と宮永崎守さきもり(現溝辺町)八町(内訳は本名用丸五町・永谷三町、前者の領主は御家人修理所検校丸)がある。また万得まんとく五町三段は、郡本こおりもとの八段(御家人加治木郡司氏平)・五段(台明寺学頭栄源)辺河へがわ四町(弁済使平左近入道西仏)よりなる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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