加々爪忠澄(読み)かがづめ・ただすみ

朝日日本歴史人物事典 「加々爪忠澄」の解説

加々爪忠澄

没年:寛永18(1641)
生年天正14(1586)
江戸前期の旗本通称は甚十郎,官職名は民部少輔,父は政尚。徳川家康に近侍し,大坂の陣に使番として従軍,秀頼母子助命嘆願の際城内に入る。元和5(1619)年目付,寛永8(1631)年江戸の町奉行となる。10年加増を受けて9500石を知行。13年江戸城石垣および堀普請を奉行し,16年上使として姫路城を松平忠明に引き渡す。17年大目付に就任,同年長崎へ出張し,鎖国令を無視して来航したポルトガル船を焼き沈め乗組員の内ルイス・パチェコら61名を死刑に処した。翌18年江戸大火の際消火出動中に焼死。町奉行,大目付など重職を歴任,能吏であった。

(しらが康義)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「加々爪忠澄」の解説

加々爪忠澄 かがづめ-ただずみ

1586-1641 江戸時代前期の武士
天正(てんしょう)14年生まれ。加々爪政尚の子。幕臣。大坂冬の陣のとき使番となり,その後目付,町奉行,大目付などを歴任。寛永17年貿易再開をもとめて長崎に来航したポルトガル船をやきはらい,使節らを死罪とした。寛永18年1月30日死去。56歳。通称は甚十郎。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内の加々爪忠澄の言及

【桶町の大火】より

…将軍徳川家光もみずから江戸城の大手門に出て陣頭指揮をとり,諸大名も老中奉書を受け消火に当たったが,いかんともしがたく,江戸の大半を焼失する結果となった。またこのとき,消火を指揮した大目付加々爪忠澄は,火煙にまかれ殉職した。この大火の翌々年9月,幕府は,従来の一部の旗本の番方組織による消火や大名の臨時の軍役的性格をもつ消火出動に加えて,6万石以下の大名16家を4隊に編成し,1万石につき30名ずつ藩邸の武士を動員,1隊が10日交代で常時消防に当たらせることとした。…

※「加々爪忠澄」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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